令和元年12月6日  知事退任会見

公開日 2019年12月25日

(知事)
 皆さま、お集まりいただきまして本当にどうもありがとうございます。私、尾﨑正直は、本日12月6日をもって高知県知事を退任させていただくこととなりました。この間、3期12年の間、本当に多くの県民の皆さま方に大変ご協力、ご指導いただいてまいりました。本当に心から感謝を申し上げたいと思います。
 また、県議会の先生方、各政党の皆さま方にも大変ご指導をいただいてまいりました。本当に心から感謝をしなければなりません。また多くの政策を官民協働で進めていただいた関係団体の皆さま方にも感謝を申し上げたいと思いますし、また、本当に頑張ってくれた県職員の皆さまにも心から感謝を申し上げたいと思います。
 12年間あっという間でありましたが、多くの皆さまといろいろな形で仕事をさせていただくことができました。これもひとえに多くのご協力をいただいた皆さま方のお陰でございまして、この場をお借りして改めて心から御礼を申し上げたいと思います。本当に皆さま、ありがとうございました。
 先ほど、濵田新知事に引き継ぎをさせていただいたところです。本当に素晴らしい方が今度新たな知事に就任をされることとなり、今後、新しい濵田知事のもとで、この高知県政がさらに発展をしていくことを願ってやまないところです。濵田新知事に松明を引き継いで、私はこの県庁から去らせていただこうかと思っています。
 また明日からは、一県民として、一政治家として、一つ一つ地道に活動していきたいと思うところです。マスコミの皆さまも含め、本当に多くの皆さま、ありがとうございました。心から感謝申し上げます。本当にどうもありがとうございました。

(大野・高知新聞記者)
 12年間を振り返ってみて、1番印象に残っているのはどんなことですか。

(知事)
 いろんなことがありますが、やはり忘れられないシーンとして言えば、産業振興計画を初めて発表したときだと思います。あのときは本当に緊張感を持っていたことを思い出します。要するに、政策展開として、官民協働で展開をしていかなければうまくいかない政策なわけで、提示した政策に県民の皆さまから支持が得られるかどうかということが非常に大きなポイントでした。そういう意味において、本当に大変、思い切った気持ちで大変緊張もしながら、発表をさせていただいて、ある意味、県民の皆さま方の審判を仰ぐような気持ちでした。悲壮感と緊張感、これを持って提示をさせていただいた、あのときのことが忘れられません。あの後、多くの県民の皆さまにご協力をいただいて、官民協働で取り組みを進めることができた。本当にありがたいことだと思いました。
 唯一一つと言われれば、そのことだろうと思いますが、もう一つ、挙げさせていただくとすれば、34メートルの津波想定が発表されたときです。私は2日ぐらい前に、事前に聞きました。ちょうど南国市を車で走っているときでしたが、当時の危機管理部長から電話で連絡を受けた、あのときのことも忘れられません。本当に頭をガツンとやられたような思いがいたしましたし、高知県の先々のことを考えて、暗澹たる思いになったことを覚えています。

(大野・高知新聞記者)
 その34メートルの(津波想定を聞いた)ときは、ガツンとやられてどんな気持ちでしたか。

(知事)
 本当に何というか、高知県はいろいろなことで大変なのに、さらにこういう重き荷を負うこととなるのかと。これが、34メートルという想定が発表されたときの県民の気持ちです。絶望感が県全体を覆うこととなるんじゃないかとか、そういうことを大変心配しました。それによって、全ての取り組みが後ろ向きになっていくことになってはいけない。そういう意味において、私が当時1番心配したのは、やはり34メートルという津波想定を受けて、県民の気持ちがどういうふうになるか。全てが後ろ向きということになってしまうのではないか。それをどう克服すべきなのかということについて、本当に大変心配をし、また腐心したことを覚えています。

(大野・高知新聞記者)
 (知事を)やっていて嬉しかったことは何ですか。

(大野・高知新聞記者)
 いろいろ嬉しかったことはありますが、リトルアーリーサクセスという意味において言えば、アンテナショップを立ち上げたときに、オープニングのとき1時間ぐらいの長蛇の列ができて、本当に多くの皆さんにご来店いただいた。今になってみれば、アンテナショップ1店を立ち上げるというのは、小さな一つの取り組みに過ぎませんが、当時としては、地産外商に踏み出していくという、シンボルとしての事業でした。
 そのことについて、多くのお客さんが来てくれて、成功裏にスタートできたことは本当にありがたいことだと思います。あれは嬉しかったです。

(大野・高知新聞記者)
 振り返ってみて、やりきったというお気持ちはありますか。

(知事)
 そうですね。まだまだ足りないこともたくさんあるわけですが、しかしながら、そのことをしっかり、よき新たな新知事に託すことができたことも含めて、やりきったという気持ちを持たせていただいています。

(大野・高知新聞記者)
 100点満点で採点してください。

(知事)
 60点、優良可不可でいけば可以上ぐらいでしょうか。

(大野・高知新聞記者)
 これで最後です。新しい知事さんへの心構えというか、こういうふうに県政を引っ張っていってもらいたいとか、ここは気を付けてもらいたいとか、メッセージを一言お願いします。

(知事)
 高知県がこれから直面するであろう課題というのは、恐らく前例のない課題というのがたくさん出てくると思います。ですから本当に、私のときもそのことを心がけてきましたけれども、道無きところに道を切り拓くような仕事、これが求められてきました。恐らく、私の時代を通じて県職員も頑張ってくれて、道も切り拓けてきたところはあると思いますが、多分、これからまだいろいろと未知の時代に遭遇することになると思います。そういうときに、ぜひ新たな道を切り拓く、そういう気概で県政運営をしていただくということが必要になってくるのではないかと。私の12年の経験からして、そう思います。
 ぜひ、そういう、新たなことを創り出すような、創造的な県政を展開されることをご期待申し上げたいと思います。

(西浦・NHK記者)
 12年務められて、今日、退任会見に臨まれました。今の率直なお気持ちをお聞かせください。

(知事)
 先ほども申し上げましたが、非常にやりきったという感覚は持たせていただいています。足りないこともたくさんありますが、良き後継者といいますか、新たな知事に託すこともできたという点も含めて言えば、一定やりきったという感覚はすごく持っています。
 気持ちということで言えば、県庁職員とか皆さんともいろいろ一緒に親しくさせていただいてまいりましたから、この組織ともお別れになりますので、それは寂しいといえば本当に寂しい感じがします。また明日から全く違う生活をすることとなるわけで、そういう意味においては何といいますか、寂しさも感じますが、やりきったという感じと少し寂しいなという感じと、それが相まったような感じでしょうか。
 何といいますか、自分で決めて進んでいこうとすることでもありますし、清々しいという感じも覚えている、そんな感じでしょうか。やや複雑です。

(西浦・NHK記者)
 先ほどのお話で、採点は60点とおっしゃいましたが、40点足りない部分はどういう部分でしょうか。

(知事)
 仮に私が4期目をやらせていただくとしたら、やりたかったことというのはたくさんあるわけです。例えば、中山間の教育振興の取り組みとか。そういう、いろいろなことがあります。他にもこういう事業をやりたかった、ああいう事業をやりたかったということがたくさんあって、そういう事業を展開することができれば、高知は中山間も含めて、もう一段ぐっと良くなるのではないかという思いを、頭の中で抱いているところです。そういうことについて、私が在任期間中にできる限り、仕込みもできるようにしてきたつもりですが、ただ、私の時代には、それを実現することはできなかったわけです。そういう意味においては、そのやり残した部分、構想はしていますが、実現は結果としてできてないということについて、その部分が足りない点だと思います。
 一言で言いまして、中山間の暮らしをもう一段、より充実させていくような事業。私のときは、まだ産業をどう興すかとかいうことに注力したところですが、暮らし・保健医療・福祉・教育、そういうものももう一段幅広く、中山間で充実させていくことで、高齢者の方も若い人もより住み続けられる、そういう中山間をつくっていくということが求められると思います。新たな県政において、そういう点の施策が充実されて、そういうことが叶うようになれればいいなと思います。

(竹村・テレビ高知記者)
 12年間、尾﨑県政によって1番変わったのは、高知県のどんなところだと考えていらっしゃいますか。

(知事)
 データ的にいえば、年々ずっとマイナス成長を続けていた、人口が減るに従ってマイナス成長状態に陥っていた県経済というものがプラス成長にまで転ずるようになった。人が減るに従って縮む経済であったものが拡大する経済に転ずることとなった。このことは、この12年間において、変わったことと言えるのではないかと。これは客観的に、データ的に言えると思います。
 でも結局は、その背景としてあるのは、本当に多くの県民の皆さんが地産外商、観光振興、こういう取り組みにチャレンジをされるようになったということ。このことが非常に大きいということではないかと私は思っています。
 よく申し上げることですが、食品関係の地産外商を担当する地産外商公社を平成21年に立ち上げたときに、その外商公社と一緒になって、県外に向けて食品関係の地産外商をやろうとされた事業者の数は、30社ぐらいだった。しかし今、一緒に外商公社とやらせていただいている事業者は200社を超えるそうです。国外への輸出、こちらについても100社を超える皆さんが挑戦をされるようになってきている。本当に多くの皆さんが、新たな挑戦をしようということで取り組みをされるようになっている。中山間地域でも集落活動センターが今58ヵ所立ち上がっているところで、地域アクションプランも200を超えるプランが展開され、それだけ多くの皆さんが新たなチャレンジをされるようになってきている。
 このことがやはり、先ほども申し上げた経済データの背景にあると思います。多くの皆さんが地産外商にチャレンジをする。新たな地域づくり、新たな産業を創出する。こちらにチャレンジをされる方が本当に増えたということ。このことは、一つ変わったことと言えるのではないかと。これは多くの皆さま方、県民の皆さま方の成果として挙げることができるのではないかと思います。

(竹村・テレビ高知記者)
 多くの県民のマインドを上向きに、ポジティブなものにできたと考えておられるということでしょうか。

(知事)
 そこまで言えるかどうか分かりませんが、少なくとも多くの皆さまが、そういうチャレンジをされるようになったということは事実だろうと思います。

(野間・時事通信記者)
 知事が12年前に財務官僚から知事に転職されて、そのとき、最初に県政運営というものに関して、どのような意識で取り組まれていたのか。そして、12年を振り返ってみて、どのように県政運営というものを総括されているのかを教えていただきたいです。

(知事)
 12年前に帰ってきて、それ以前に、総理官邸にいたんですが、そこでデータを集めて高知県のことを調べたときの衝撃。全国の中で、なぜか高知だけ置いて行かれるような形の経済データになってしまっている。これは厳しいことになっているんだと思って、その後、知事選出馬というお話があって高知に帰ってこさせていただいて、選挙戦を通じていろいろな方にお話をして、一言でいうと本当に厳しいんだと思いました。確かに、今、経済データを見てみて年々マイナス成長が続くということは、果たしてどれだけのことか。平成13年から平成20年の1人当たり県民所得は14%を超えてマイナスになっていた。本当に大変なことです。
 ですから、そのことを私も選挙戦中の短い期間ではありましたけど、いろいろな方にお話を聞いて、その厳しさを本当に痛感しました。ですから、私が就任させていただいたときは、果たしてできるかどうか分かりませんが、何とかこの厳しい経済状況の打開を図りたい、本当にその結果を追求して仕事をしなければならないと思った。そのことは確かでした。
 ですから、逆にいいますと、他方で県行政で何らかの取り組みをすることで、県経済を元気にすることが果たしてできるものかどうかということも、当時非常にある意味、苦しく思ったところでした。本当にどうすればいいかということを平成19年から20年ぐらいは考えていました。ですから、そのときに「対話と実行座談会」等を通じていろいろな県民の皆さまにお知恵をいただいたことは、本当にありがたいことです。またいろいろな有識者の皆さまにも助けていただきましたし、自分自身もいろいろな勉強をしましたし、そういうことを通じて、何とか政策をまず第1期のものとして立ち上げて、さっき申し上げた発表をさせていただいたという流れに至ります。
 本当に何とかこの経済状況を脱しないと、単に経済の景気が悪いという問題ではなくて、高知県の社会そのものが崩壊しかねないぐらい深刻だと本当に思いましたし、さらに言えば、そういう状況を何とか打開するということが、県庁の政策でもって本当にできるんだろうかということを非常に不安に思って、あがき苦しんでいた感じが当時ありました。
 ただ、本当に先ほど申し上げた産業振興計画をつくって発表させていただいて、例えば銀行が包括協定を結んで一緒にやろうと言ってくださるようになってきたり、いろいろな経済団体の皆さまも一緒にやろうと言ってくださるようになってきて、官民協働の体制になって、県庁の政策だけではなくて、官民協働の体制になっていったからこそ、いろいろな政策の経済効果も出てくるようになってきた。だんだん県の政策として、県経済全体を下降傾向にあるものを押しとどめて、上昇傾向に転ずることができるようになるかもしれないと、だんだん自信をつけてきた。そんな感じがします。

(野間・時事通信記者)
 これまで一緒にお仕事をされてきた職員の方たちに対して、振り返ってみて、どのような言葉をかけたいですか。

(知事)
 そうですね、本当によく頑張っていただいたと思います。正直なところ、平成20年ぐらいは私もかなり困惑していまして、要するに、外で聞いてきた厳しい話と、県庁で職員から上がってくる話との間にえらく差があって、本当に何というか、当事者意識を持ってやっているのかと思ったときもありました。また、対話と実行座談会とかで県職員からもらった回答をベースにして答えても相手が納得してくれないわけです。そんなやり方でうまくいくとは思えないとか、そんな感じです。ですから、平成20年ぐらいというのは、ある意味本当に県職員の皆さんと格闘するような感じで仕事をしていました。本当に新たな政策をつくるにあたっての、新たな取り組みを進めるがゆえの摩擦というか、そういうものがあったりして大変だったんですが、ただ、特に2期目、3期目となってくるに従って、例えば最初は私がきめ細かく口出ししなければいけなかったPDCAサイクルが、2期目になれば自動的にだんだん回るようになってきました。ですから、もう細かいシートを私がほぼ見ることもなくなってきたりして、3期目になってくると新たな挑戦とか、そういうものも職員のほうからどんどん出てくるようになりました。正直なところ、3期目になってぐらいからは、あぁ随分楽になったなと思いました。私がそんなに口を出し、手間をかけなくても政策が進んでいくことがたくさん出てくるようになってきて、むしろ私は例えば職員のリミッターを外すとか、全く新しい分野の切り開き、いわゆる既存の延長上にない新しい分野を切り開いていくとか、そういうことに専念できるようになってきたりして、そういう意味においては、本当にこの12年間を通じて、県庁職員の皆さん方もある意味不満もあったでしょうし、それから大変だと思ったと思いますが、本当に頑張ってくださったと思います。本当に、先程から申し上げている道なきところに道を切り開くような仕事を一緒にさせていただいてきたわけで、職員の皆さんの頑張りに本当に心から感謝を申し上げたいと思います。
 それから、私が4選不出馬というときの理由としても申し上げましたが、多分これだけ職員一人一人が頑張る高知県庁になった限りにおいては、私のようなトップダウンスタイルは、多分あまり必要なくなってきているのではないかと思います。みんながどんどんいろんな知恵を出していく、そのことをしっかり後押ししていくようなスタイルが、これからはよくなってくるんだろうという感じがしました。もし4選で私が出馬させていただくこととなったのであれば、私も思いきり芸風を変えないといけなかったでしょう。だけど、私としては、自らの芸風を変えるのではなくて、自分の芸風を活かせる道に行こうということで決意をさせていただいたということです。

(大山・高知新聞記者)
 こういうことに取り組んでこられたということをおっしゃられていますが、尾﨑知事でなければできなかったと思われることはありますか。

(知事)
 自分でないとできなかったことは多分なくて、恐らく時代の要請によってどういう方が知事になっても、私のようなことを目指そうとされたのかなと思います。私ではないとできなかったことというのは、特にないんじゃないかという感じはします。誰でも。ただ、あえて言えば、幸い体力がありましたので、お酒も飲めますし、そういうことを通じて、何というか、県民の皆さまといろいろなお話をさせてもらって、そこでいろいろ教えてもらうことができた。さらに、それに年が若いということも相まって、多くの皆さんとコミュニケーションをさせていただいて、いろいろなことをお話させていただくことができたというのは、若い知事ゆえの、体力があって若くて酒も飲めてということがゆえのコミュニケーションをたくさん県民の皆さんととらせていただいたという感じがします。

(大山・高知新聞記者)
 政策の中で、例えばこれは自分がやり遂げた、自分だからできたと思われることはありますか。

(知事)
 自分だからということかどうかは別として、地産外商という産業政策そのものというのは、もう随分高知県に根づいてきたと思います。もっと言うと、産業政策のみならず、民間の経済活動の中にもそういう方向性というのは、観光振興も含めて言えば、明確に根づいている、むしろ活発に展開されるようになってきている。そのことは言えることではないかなと思います。

(大山・高知新聞記者)
 県政満足度は高いまま推移し、12年間、正確に言うと、2回選挙の審判を受ける機会がないまま任期を終えることになりました。このことの受け止めというのは、今振り返ってどんなふうに考えますか。

(知事)
 私自身は正直、1期目の特に選挙期間が短かったということもあって、2期目も3期目も選挙をやらせていただくつもりで準備もしていましたし、その気満々でいたわけですが、結果として無投票ということになりました。ですから、無投票だったからこそ、選挙期間を通じて県民の皆さまの声が聞こえてないということを意識して、自覚して、例えば対話と実行行脚という取り組みを意識してさせていただいたつもりでした。何回か回ってこれで選挙の1日分かなと思ったり、そんなことをよく考えたりしていました。ただ、県政満足度が高いままとおっしゃいましたが、最初の頃は33%とか43%という時代もありましたので、そういう意味においては最初の頃は随分大変でした。まだ産業政策ができあがっていく前、さらに言えば実行される前の段階というのは、県民の皆さま方も随分歯がゆい思いをされたのではないかと思います。しかし、だんだん官民協働で取り組みを進めさせていただくにつけ、あたたかいお言葉もいただくようになったという感じでしょうか。

(阿部・読売新聞記者)
 10年後20年後、未来の高知県の理想像とか、そういうものは何かお持ちでしょうか。

(知事)
 二つあります。一つは、やはり地場産業、世界と闘う地場産業が育つということだと思います。東京一極集中とよく言われますが、東京一極集中してるのはやはり東京に魅力があるからであって、何で東京に魅力があるのかというと、それは東京が世界の都市と常に競争を意識して、自らを磨き上げているというところが非常に大きいと思うんです。実際に東京へ行って、東京一人勝ちだと思ってる人は多分いなくて、東京はいつも例えばこのままでは上海に負けてしまう、香港に負けてしまう、シンガポールに負けてしまうとみんな思って、例えば施設の磨き上げを事業者さんもされたりして。
 そういう東京に一極集中しないということは、即ちこの地方において、東京と同じく世界と闘う、そういう地場産業ができていくということだろうと思います。地産外商、この地に産するものを磨き上げるということも非常に重要な視点であるのは言うまでもないことで、持てるものを活かして、それが世界に通用するような事業となるように育て上げていくこと、ゆえに、この高知において魅力のある仕事ができるので、若い人たちが残る、帰ってくる、そういうことを目指すことが大事だと思います。
 そういう点でいけば、例えば園芸農業とか。この高知の園芸農業は今はもう日本最高水準だと思いますが、今までオランダ型も取り入れてきて、さらにはNext版の開発もしたりして、世界トップクラスの園芸農業になっていこうとしているところで、そういう形で世界と闘える地場産業を育てる。こういうことを拡販の分野で展開していくことが、まず大事だと思います。これは高知にとどまらず、日本全国でも大事なことだと私は思っておりますが、もっと言うと、東京一極集中の問題とか、本当の意味で解決するためにはこういう点が重要なんだろうと思っています。それが第1。
 2点目が、もう一段中山間地域で住み続けられる環境というのを、保険、医療、福祉、教育面も含めてつくり上げていくことが非常に大事だと思います。その点については、例えば高知版の地域包括ケアシステムづくりをするとか、ICTを活用した中山間の教育の充実を図ろうとか、いろいろな取り組みをスタートしてきているところではありますが、ぜひそれをより本格的に展開をしていくというのが、これからの県政に求められる点ではないかと思います。そうしていくことで、本来、高知県の東京にはない強みを持っている中山間地域、その地域がしっかりと栄えていくことで、私たちの高知県が本当の意味で強みをしっかり活かすことのできる、多くの県民の皆さまが住み慣れた地域で豊かな暮らしを送ることのできる高知になっていくということを目指していくべきではないかと思います。
 ぜひそうなるためにも、いい形で時代の流れを活かす。特にデジタル化の流れとか、そういうものをうまく活かしていく。そういうことが大事だと思います。産業の点も住み続けられるという点も両方大事だと思います。

(大野・高知新聞記者)
 濵田県政とのかかわりについてお伺いしたいんですが、選挙も一緒に戦ってこられて、路線の継承というのが色濃く出た選挙戦、その上での引き継ぎということになりますが、院政のようなことになってしまわないのか。お伺いします。

(知事)
 そういうことはしてはいけないと思います。何というか、県知事の職にあるときというのは、県政について、ひと言で言うと、少なくとも幅の広さとか、特に重要事項については、深さもそうでしょうが、潤沢に情報を持っています。今この段階でいけば、私は新たな知事さんよりもはるかに県政についての情報を持っていると思います。だから、判断ができるわけです。でも、県政を離れて、県知事を離れてしまったらそういう情報を持っていないわけですから、それで口出しをして影響を及ぼしたりすることは、ぜひとも避けなければならないことだと思いますし、さらにもっと言えば、そういう形で二重権力状態になることは極めてよくないことだと思います。だから、院政化するようなことはしてはいけないでしょうね。

(大野・高知新聞記者)
 口出ししたくなりそうになりませんか。

(知事)
 口出ししたくなりそうなときには、何というか、公に議論をするようにするという感じではないでしょうか。

(大野・高知新聞記者)
 最後に、ご自身の活動についてお伺いします。国政転出というのを表明された上での退任ということになりますけれども、明日からどのように活動をされることになりますか。

(知事)
 正直なところ何の準備もしてないので、具体的にどういうふうに取り組みをしていくかということについては全くこれからなんですが、ただ、イメージとして言わせていただければ、よりきめ細かく地域地域を足で歩かせていただいて、いろいろ細かくお話を聞くということをさせていただくことが大事だと思っています。

(大野・高知新聞記者)
 2区の中でということになりますか。

(知事)
 そうですね。ただ、1区でも、本当に多くの皆さま、これまでも県政を通じてご指導いただいた方もおいでになり、いろいろなお誘いもいただいたりしているので、1区の皆さんのところにも行って、より深く高知の、日本のいわゆる地方の代表格である高知県のいろいろな現状を勉強させてもらう。そういうことはぜひしたいと思います。

(大野・高知新聞記者)
 自民党への入党とお住まいについては。

(知事)
 自民党には、この退任後に入党させていただくことになるかと思います。ちょっと今、日付は確定してないと思いますが。

(大野・高知新聞記者)
 なるべく早くということですか。

(知事)
 そうなると思います。それが一つ。住まいについては、家を借家として借りさせていただきたいと思います。

(大野・高知新聞記者)
 高知市内の2区エリアということになりますか。

(知事)
 そうですね。

(知事)
 犬を飼っているので、一戸建てでないとその犬を連れていけないもので、当然買うこともできない、借家としてお借りさせていただこうと思っています。

(大野・高知新聞記者)
 事務的なことなんですが、今後の選挙等の連絡先や事務所はどこになりますか。

(知事)
 連絡先は私の秘書の池田が連絡先ということになろうかと思います。
 それではどうも皆さん、12年お世話になりました。本当にどうもありがとうございました。

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