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長宗我部元親と土佐の戦国時代・土佐の七雄

更新日 2009年10月15日

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戦国時代、土佐は多くの勢力が群雄割拠していた。その中で土佐を統一そして、四国をも統一した長宗我部氏とそのライバル達を紹介。

土佐の七雄とは

七雄・七守護とは本山(もとやま)氏・安芸(あき)氏・太平(たいへい)氏・津野(つの)氏・吉良(きら)氏・香宗我部(こうそかべ)氏(山田(やまだ)氏のときもあり)・長宗我部(ちょうそかべ)氏のこと。別格として公家大名の一条氏がいる。
 所領としての規模は一条氏が一番大きく、七雄の中では長宗我部氏が一番勢力的には弱い立場であった。

長宗我部氏

長宗我部氏

規模として3千貫(およそ1万石)
【人物:長宗我部国親、長宗我部元親、長宗我部信親、長宗我部盛親】   

七つ酢漿草

 長宗我部氏のルーツは一説には、蘇我氏一門の子孫説や秦の始皇帝説が言われている。元々、泰氏を名乗っており平安期から、鎌倉期に掛けて土佐に移り、長岡郡宗部郷(宗我部郷)に定住し、宗我部氏を名乗った。しかし、近隣の香美郡宗我郷に同じ宗我部を名乗る一族がいたため、それぞれ郡の一文字をいれ長宗我部、香宗我部と名乗った。
 長宗我部兼序(元親の祖父)の時、細川氏の権威をかさに来て傲慢な振る舞いを行ったため長宗我部氏は本山氏と周りの諸氏に攻められ討ち取られ、一時衰退してしまう。 兼序の子千雄丸(国親、元親の父)は家臣に連れられて、一条氏の保護を受けその助力を得て旧領に戻ることが出来た。
 その後は、元親の活躍があり土佐、四国を統一するも、豊臣秀吉の侵攻を受け降伏し、土佐一国を安堵されるも、長男信親の死以降長宗我部家は衰退していき、盛親の時代には関ヶ原で西軍につき、土佐を没収されることとなった。

一条氏

一条氏

規模として1万6千貫(およそ5万石)
【人物:一条教房、一条房家、一条房冬、一条房基、一条兼定】

下り藤

 土佐一条氏は元々関白の位にいた教房が応仁の乱を逃れ、自領の建て直しを図るため下向してきたものであった。
 土佐の七雄のひとりである大平氏の協力を得て自領の幡多庄へといたった。そこで、着々と力を蓄え、公家大名として土佐の有力大名となっていった。
 一時期は、土佐の有力者たちが国司として敬い安定していた時期もあったが、次第に戦国の世に突入していった。勢力争いの中では一番領地が大きく、勢力も勢いがあった。
 房家は長宗我部国親を保護し、助力をしていたが、その子房基の時代には次第に領地を侵略され兼定の代にいったって幡多領主としての一条家は滅亡した。

津野氏津野氏

規模として5千貫(およそ1万7千石)
【津野経高、津野之高、津野勝興、津野(長宗我部)親忠】

丸の内一文字

 津野氏は延喜十三年(913)に伊予国から土佐国に入り、高岡郡梼原を開拓し、津野山を開拓していった。そして、天暦三年(949)に半山城を築いて移り、三島大明神を勧請したという。かくして、経高は名字を山内から津野に改め、康保二年(965)に死去したと伝えられている。
 津野氏は独自の文化、津野山文化を広げ室町時代には五山文学の双璧、絶海中津と義堂周信の二人が出ている。
 定勝の時代に長宗我部氏の勢力が増し、家臣たちは長宗我部に付き従うことを定勝に進めたがこれを拒否したため子の勝興を当主にし定勝を伊予に追放した。その後、長宗我部に降り元親の三男親忠を養子に迎え、津野氏は長宗我部に付き従った。
 津野親忠は幼かったため勝興が政治を見ていが、その後は親忠自身が政治を行い領民には慕われていた。
 長男信親死亡後、後継者争いに敗れ元親により岩村の寺に幽閉されてしまい、その後暗殺されてしまう。

本山氏

本山氏

規模として5千貫(およそ1万7千石)
【本山養明、本山茂宗(梅慶)、本山茂辰】

檜 扇

土佐の七雄の中で一条氏を除いて一番の勢力を誇っていた。元々の領地本山郷は山間部にあり、しだいに平野部へと進出していった。その後、長宗我部兼序を打倒することとなる本山茂宗(梅慶)が所領を広げていった。
長宗我部氏も国親が旧領に戻ったとき、本山氏とも和議を結び、国親の娘を茂宗の子茂辰に嫁がせ一時期平穏なときもあった。
しかし、国親が勢力を伸ばし、茂辰は国親・元親との決戦が始まる。その決戦で元親の初陣の活躍により本山氏は衰退し、とうとう茂辰の子親茂のときに降伏することとなる。

 

安芸氏安芸氏
規模として5千貫(およそ1万7千石)
【安芸実康、安芸国虎】

三つ割剣花菱

 安芸氏の由来として壬申の乱で土佐へ流された蘇我赤兄の後裔とも、藤原氏や橘氏、さらに惟宗氏の後裔などの説がある。
 安芸氏は土佐の東部地域を治めており、大きな勢力として誇っていた。だが、長宗我部氏が台頭するにつれ小競り合いが頻発するようになる。その時の当主が安芸国虎であった。国虎は長宗我部氏が本山氏を攻めているときを見計らって岡豊城を攻め最初のうちは優勢を計ったものの、背後から 長宗我部軍の援軍の攻撃により退却を余儀なくされる。
 その後、和睦を結ぶも一時的なものでしかなく、長宗我部氏の攻撃と、家臣の裏切りにより国虎は自刃した。

 

大平氏大平(大比良)氏

規模として4千貫(およそ1万4千石)
【大平国雄、大平元国】

木瓜に三つ巴

大平氏は一条氏が下向してきた際、助力を行ったことが知られている。また、長宗我部兼序への攻撃にも加わっている。しかし、周りを一条、本山、津野、長宗我部ら強豪に囲まれ地位を守り抜くことができなかった。

吉良氏吉良氏

規模として5千貫(およそ1万7千石)
【吉良宣経、吉良(長宗我部)親貞】

二つ引両?

吉良氏は南村梅軒を向かえ南学(朱子学)の元を開かせたことで有名である。本山氏の侵攻により一条氏に通じるようになったが本山氏に敗北し吉良氏は滅亡をすることとなる。
しかし、名門であった吉良氏の名を惜しんだ長宗我部元親が吉良宣直の娘を娶っていた弟親貞を吉良左京進と名乗らせ吉良家の名跡を継がせた。

香宗我部氏

香宗我部氏

規模として4千貫(およそ1万4千石)
【香宗我部親秀、香宗我部(長宗我部)親泰】

割 菱

もともとは、鎌倉時代に中原秋家が香美郡宗我・深淵両郷の地頭に任命されたのが始まりで、そのご地名の宗我部を名乗っていたが、隣の郡に泰氏が同じ宗我部を名乗っており、区別をつけるため郡の頭をとって香宗我部と名乗るようになった。
鎌倉・室町時代と守護職の細川氏とむすんで勢力を伸ばしていたが、しだいに一族の統制がとれなくなり衰退していった。香宗我部親秀の時、長宗我部国親が勢力を伸ばしてきており国親の三男親泰を養子に迎え、長宗我部、香宗我部連合を作るようになる。