長宗我部元親と土佐の戦国時代・史跡案内

公開日 2009年10月15日

 

 

 

土佐の戦国史跡案内

 

 

 戦国時代の土佐。それは一条氏と七雄が活躍していた時代。その中に長宗我部氏も含まれている。
 しかし、長宗我部氏は土佐の七雄の中でも最小というほどの勢力でしかなかった。その長宗我部氏が四国統一をほぼ成し遂げ、そして滅亡していった。
 その史跡らをご紹介。

長宗我部元親公初陣之像

 高知市長浜にある若宮八幡宮の参道近くに、元親の没後400年を記念して建立された。手の前には四国の地図がありそれをつかもうとしている。

  

長宗我部元親墓

  元親の墓は長浜の天甫寺山の南斜面の木々に囲まれてひっそりとたたずんでいる(※異説もございます)。1599年4月上洛したが、病気療養のため伏見の屋敷でとどまっていた。しかし、翌5月に死去する。

 

 

姫若子

 

 



元々、元親は「姫若子」と言われるほど、色白くおとなしかった。しかし、本山氏との戸ノ本での戦いでは、初陣にもかかわらず50騎をともなって奮戦し戦功をたてた。ついで、潮江城の攻略にもおもむき、老臣たちが無謀と諌めたが、元親は「城内に人はおらず。急ぎ攻め入れ」と進撃を命じた。その言葉通り、城には人はおらず、これ以降「土佐の出来人」と言われるようになった。

 

 


 

 

 

 

秦神社

 

 

 明治の廃仏毀釈により、長宗我部家の菩提寺であった雪蹊寺が廃寺となってしまったため、元親の木像や戸次川戦没者の慰霊を祭るため建立された。

 

雪蹊寺

 長宗我部氏の菩提寺。元は延暦年間に弘法大師が建立した高福寺であったが、元親の庇護を受け、長宗我部氏の菩提寺となった。名前も元親の法号にちなみ雪蹊寺と改称された。

長宗我部信親墓

  雪蹊寺の敷地内にある。信親は、元親の長男で将来を期待されていたが、九州での戸次川での戦いにより戦死してしまう。期待していた元親の落ち込みようはひどかったといわれている。これにより、長宗我部家の後継争いが勃発してしまう。

 

 

戸次川合戦戦没者供養塔

 信親に付き従い戦死した将兵を供養するために立てられた塔。戸次川の戦いでは総勢3000名余りの長宗我部軍のうち実に700名余り(500という説もあり)が戦死した。 

 

 

 

 

長宗我部と一条

 

 


  土佐一条氏は元々関白の位にいた教房が応仁の乱を逃れ、自領の建て直しを図るため下向してきたものであった。 土佐の七雄のひとりである大平氏の協力を得て自領の幡多庄へといたった。そこで、着々と力を蓄え、公家大名として土佐の有力大名となっていった。
 長宗我部元秀の時、細川氏の権威をかさに着て傲慢な振る舞いを行ったため長宗我部氏は本山氏と周りの諸氏に攻められ自刃。一時衰退してしまう。 元秀の子千雄丸(国親、元親の父)は家臣に連れられて、一条氏の保護を受ける。千雄丸(国親)は、お家再興をめざして成長していく。
 千雄丸七つのとき、一条房家が高楼で酒盛りをしていたが、ここから庭に飛び降りたら家を再興してやると言われすぐ飛び降りた逸話もある。


 

 

石丸神社と六地蔵(一領具足の碑)

 

 

 元親の跡を継いだ四男盛親は関ヶ原の戦いにて西軍についてしまい、土佐の所領を取り上げられてしまう。それに反対した一領具足たち273人は「旧主に土佐一郡(半国とも)を残して欲しい」と浦戸城へ立てこもってしまう。しかし、ことごとく捕縛され斬首にされてしまった。首は大坂に送られ胴体がこの地に埋葬された(浦戸一揆)。石丸神社はその胴体が埋められた跡に建てられた神社であり、その浦戸一揆の悲劇を後世に伝るために建てられたのが一領具足の碑である。

 

浦戸城跡

 1591年(天正19年)大高坂城から浦戸へと居城を移す。旧城であった岡豊城にはなかった天守がこの地には出来ている。現在、国民宿舎桂浜荘と県立坂本龍馬記念館がある場所は詰の段と言われる場所で、桂浜荘の敷地内には石垣跡も見受けられる。



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元親と禁酒令

 

 


元親は一時期飲酒を規制していたことがあった。しかし、福留隼人(儀重)という家臣が城に運ばれる酒樽を見て、その場で樽を打ち砕き「民に酒を飲むなといっておいて自分が密かに飲むとは道理にあわない」と諌められたことがある。そのことを反省した元親は禁酒令を解いたのであった。


 

 


大高坂城(高知城)

 

 

 1588年(天正16年)岡豊城から大高坂城へと移った。しかし、この地は河川にはさまれ、洪水が多く治水もままならなかった。その後浦戸に移ってしまう。

 山内氏入国時には浦戸では狭く治世がとりにくいため、山内氏は再度大高坂城を居城とした。河の内側にあるため河内(こうち)と名を変え河智、高智、高知となり現在の高知の名の由来となっている。

 

 


岡豊城跡(国史跡)

 

 

 長宗我部氏は代々この岡豊(おこう)城を拠点に活動をしていた。1588年(天正16年)に元親が大高坂城(今の高知城)に城を移すまで長宗我部氏は何度か大きな攻撃を受け落城もしている。

 現在は、史跡が残るのみとなっている。近くに県立歴史民俗資料館があり、北側には長宗我部氏累代の墓が残っている。

 

 

長宗我部氏一代の墓

 長宗我部氏の累代の墓。四国統一をなしとげようとした一族の墓としては規模が小さいが、元親の時代になるまで、勢力的に弱かったことを考えると理解できるのではないか。


伝香川五郎次郎親和の墓

 元親の次男で、讃岐西半国六郡の領主香川信景との同盟により養子に入る。東讃岐を制圧するときに戦果をあげていたが、秀吉の四国征伐により、土佐へと帰還している。

 その後、長男信親の戦死により秀吉から後継の朱印状を認められたが、元親はそれをよしとせず、沙汰をくださずほうっておいた。それにショックを受け病になり病死したとも、断食をして自害したとも伝えられている。


津野親忠墓(津野神社)

  元親の三男で、高岡郡の津野氏に養子に入り、津野山郷(現在の梼原町、津野町、須崎市周辺)を治めていた。秀吉の四国征伐のあとは人質に出された。家督争いのとき家臣から推されたことで、元親の不信をかってしまう。元親の命により香美郡岩村に幽閉され、そののち関ヶ原の戦いが起こる。人質時代懇意にしていた藤堂高虎にたのみ長宗我部家の存続を願い家康も了承していたと言われているが、盛親の家臣の「津野殿は土佐半国を手にしようとしている」という讒言により暗殺されてしまう。これは、家臣の独断であったとも言われている。
 幽閉されていた岩村の地に神社を建てたものが津野神社である。

 



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