中国・四国地区知的障害関係施設研究協議会での知事講演

公開日 2007年12月07日

更新日 2014年03月16日

中国・四国地区知的障害関係施設研究協議会での知事講演

平成14年7月17日(県民文化ホール)

 皆様こんにちは。ご紹介いただきました高知県知事の橋本でございます。本日は、中国・四国地区の研究協議会の開催、誠におめでとうございます。また、記念講演の講師としてお招きをいただきまして、誠にありがとうございます。

 と、お礼を申し上げた後すぐこんなことを言うのも失礼かもしれませんけれども、相変わらず、私、土曜・日曜もなく、忙しく飛び回っておりますので、こうした講演をお引き受けをしても、新しい話を集めたり、またまとめたり、そういう時間的な余裕がなかなかございません。

 このため、最近は講演のご依頼はできるだけお断りをしてるんですけれども、今回は、日頃からお付き合いをいただいている、仲良くしている方々から、是非にというお誘いを受けましたし、また、父が身体障害者であったというようなこともございますので、今日の講演は、気持ちよく引き受けさせていただきました。

 とは言いましても、皆様方のお仕事に関わること、その内容だけで1時間のお話をすることはできませんし、また皆様方にとりましても、専門分野のお話、このことはこの後の午後の分科会ですとか、また明日の基調講演で十分お聞きになると思います。

 ですから、この記念講演は、あんまりそういう専門的な話だけではなくて、色んな話が聞きたいなというのが、皆様方の思いではないかと勝手に推測をさせてもらいまして、今日は、先ほど言いました、身体障害者だった父のことなど、家族のこと、少しプライベートなお話を中心に1時間ほどお話をさせていただきたいと思います。

 ただ、せっかくの機会でございますので、私自身の知的障害者の方々、またその施設との関わりですとか、知事になりましてのそうした問題への思いということも、少しだけ最初にご紹介をさせていただきたいと思います。

 私の最初の知的障害者の方々との関わりは、NHKの記者として大阪の放送局にいた時のことでございました。その当時、ちょうど養護学校の義務化の問題が起きまして、「近所の学校での統合教育か、それとも養護学校での教育か」ということが、対立軸として争われていた社会問題がございました。

 と言っても、僕自身はこの問題にさほどの関心を持っていたわけではないんですけれども、たまたまその当時、先輩のカメラマンから「この養護学校の義務化によって、これまで通っていた近所の小学校に通えなく施設の子ども達がいる。その子ども達の取材に行ってみないか」と誘われました。このことが、知的障害の方々と関わりを持つ最初のきっかけでございました。

 で、その施設は、皆さん方の中にもご承知の方があるかと思いますが、滋賀県の能登川町という町にございます「止揚学園」という施設でございます。この止揚学園という施設は、福井達雨さんという方が、今からちょうど40年前に設立をされた施設でございますが、最初、福井さんと4人の子供で始まりました。で、その4人の子ども達に福井さんが出会った話の中にも、福井さんらしいエピソードがございました。

 それはどんな話かと言いますと、「その4人の子供さんの1人の家を訪ねた時に、昔、牛を飼っていたという小屋、そこに穴を掘ってその中にその知恵遅れのお子さんが入れられていた」と言うんです。で、それを見て福井さんは、母親に「なんて酷いことをするんだ」と言って怒鳴りました。

 そうしましたらその母親が涙声で「いや、この子どもが外に出たら、近所の人達からいじめられるし、石も投げられる。また、子どもが車の方に走っていったとしても誰も止めてくれはしない。この子どもの命を守るためには、こうして穴の中に入れている、それしかできないんだ」と、その母親が言ったと言います。

 その話を聞いて福井さんは、「このように子ども達を差別をしてきた、その一員の中に自分もいたんだ」ということに気づいて、「この子ども達へのお詫びをしよう、謝りたい」そういう気持ちで立ち上げたのが、その止揚学園という施設でございました。

 私が止揚学園に初めて伺いましたのは、今からもう20年あまりも前のことでございますが、先ほど言いました養護学校の義務化の問題が、かなり社会問題になっておりましたので、その能登川の駅に降りて学園までの道すがらにも、「施設の子どもは養護学校へ」というような立て看板があちらこちらに立てかけられておりました。

 で、その後も止揚学園に何度か伺って、時には夜通し、泊まり込みで福井さんのお話を伺ったこともございますが、肝心の養護学校の義務化の問題では、近くの小学校にも取材に行きました。校長先生が取材に応じてくださったのは良いんですけれど、大変紋切り型というか、官僚型の答弁しかできない方で、自分も非常に腹が立ったのを覚えています。

 が、その一方で近江八幡というご近所の市にございます養護学校に行きますと、養護学校の先生の話にもウンウンと肯くべき内容がございました。

 ですから、その放送として流した内容は、「近くの学校での統合教育か、それとも養護学校での教育か」という、当時の対立軸からすればどっちつかずの、なにか問題点の紹介だけに終わったような形になりました。このため、その後、止揚学園を訪問をしました時に、福井先生から大変厳しく苦言を呈されたというのも思いでの一つでございます。

 で、こういう経験がございましたので、知事になりましてからも障害者、障害児の問題、また障害児教育の問題には人一倍関心を持って取り組んできました。と言うよりも、「取り組んできたつもりです」と言った方が正直なのかもしれません。

 例えば、小・中学校を訪問教育を受けた知的障害の方の親御さんから、「小・中学校だけではなくて、高校も訪問教育をやって欲しい」という要望を受けた時にも、教育委員会とかなり喧々諤々の議論をいたしました。

 と言いますのも、その当時、教育委員会では「高等部の訪問教育はできない」と、こう言っていたんですが、その理由は何かということを訊きますと、「小・中学校と高校とでは制度、仕組みが違う。だから、高等部で訪問教育をしても卒業証書が出せない。だから訪問教育はできない」と、こういう説明でございました。

 その説明を聞いて僕は、教育委員会の担当の方に、「それはやはり少し違うんじゃないの」ということを言いました。と言いますのも、「小・中学校に続いて、高等部でも訪問教育をして欲しい」という親御さんの願いは、決して卒業証書が欲しいということではなくて、小学校、中学校と訪問教育でついてきた力、それは生活の力だとか、自らを律する力だとか、様々な力があると思いますが、そういう力をそのまま衰えずに高校の段階でも保っていきたい。

 また、時には訪問教育で家庭に来て下さる先生にお任せをして、少しの時間でも家を空けたい。様々な暮らしに根ざした、毎日の生活に根ざした願いが、つまり、教育という視点だけではなくて、福祉の視点も含めた願いが込められてるんじゃないか、という話を教育委員会といたしました。

 で、結果的に、平成9年度から県の単独で、中村で2名の方、試行という、試みという形で高等部の訪問教育を始めましたけれども、その後、平成12年度から全国的に、この高等部の訪問教育が本格化をしたことは、皆様もご承知の通りだろうと思います。

 また、この高知市の隣に南国市という市がございます。そこに「土佐希望の家」という重度心身障害児・者の施設がございますが、ここには、先ほど申し上げました養護学校の義務化が施行をされました昭和53年の4月から、県立の若草養護学校の分室がございました。

 が、私が知事になって間もない頃から、その分室に子供さんを通わしている親御さんから、「是非、分校にして新しい校舎を建てて欲しい」と、こういうご要望がございました。財政の問題をはじめ、様々、多くの課題がございましたが、そういう課題を一つずつ乗り越えて、平成10年の4月からは分校として高等部も設置をすることができましたし、一昨年からは新しい校舎を建てて、そこで学んでいただけるようになりました。

 今は、通学の方、また入所で通われる方を含めまして、小・中・高校26人の子ども達が勉強をしてくれていますが、こうしたことも自分としては記憶に残る仕事の一つでございます。

 ということで、自分のNHKの記者時代、また知事を通じての皆様方のお仕事と少し関わりのある話を幾つかご紹介をさせていただきましたけれども、そもそも、私が障害者の問題に関心を持つというか、関わりを持つきっかけになりましたのは、父親が1級の手帳を持つ身体障害者だったということでございます。

 そこで、父の話を少しさせていただきたいと思いますが、私の父、橋本龍伍といいますが、橋本龍伍は私がもう物心ついた時には政治家になっておりました。ただ、左足の不自由な身体障害者でございました。

 その父が、身体に障害を負うことになったきっかけは何かといいますと、小学校の5年生の時に罹った病気が原因でございました。この病気は、左足のちょうど付け根の所、大腿の付け根の所に結核菌が入りまして、その結核菌が骨を溶かして膿んでくるという病気でございました。

 このため父は、小学校の5年の時から7年間、青春の時代、思春期の時代を全て病院のベッドの上で暮らすことになりましたけれども、この傷口が毎日毎日膿んでまいりますので、切開をした穴にガーゼを入れてその膿を取り出さなければいけません。

 しかし、毎日毎日麻酔をするわけにもいきませんので、この処置が大変痛いということで、子ども時代の父は、その処置をする度にベッドの上の鉄棒の所をつかんで「う~ん」と、もうものすごい大きなうめき声を上げていたということです。

 このため、父の一番上の兄、私から見れば伯父でございますが、伯父が毎日毎日大きなうめき声で周りの患者さんに迷惑を与えてはいけないということから、当時有名だったオペラ歌手のレコードを買ってきまして、そして看護婦さんに、その処置をする時には毎日レコードをかけてもらって、その声でそのうめき声を消したというような話もございました。

 こうして病院の中で7年間の生活をおくる中で、関東大震災が起きました。その時もその伯父に背負われて、父は命からがら病院を逃げ出したのですけれども、それを機会に祖父母も、もうこのままでは父は良くならないだろう、もういっそのことどこかに隠遁の生活をさせてしまおう」ということから、神奈川県に鎌倉という町がございますが、ここに小さな家を借りて父を住まわせました。

 そうしましたら、まあ何が幸いするか分かりません。それがきっかけになって急に傷口が乾いて、松葉杖を使えば歩けるようになりました。そうしましたら、やはり7年、病院のベッドで寝ていた反動だと思いますが、早速、松葉杖をついて中学校の編入試験を受けて、中学校に入りました。

 そして、中学を卒業して高校の受験に臨んだんですけれども、足が不自由なために、当時は軍事教練というものがあって、軍隊の演習みたいなものですけれども、この「身体障害者のために軍事教練に出られない」ということを理由に、受験をさせてもらえませんでした。

 で、ここからが、まあ父のしぶといというか、大変負けず嫌いな所なんですけれども、そのことがあって、もう、ほとんど毎日のようにその高校に通って、事務の方や先生をつかまえては「試験を受けてそれで落第したんならばあきらめがつく。

 だけど、身体障害者だ、軍事教練が受けられないということだけで試験も受けさせてもらえないというのは差別だし、またあまりにも不平等、不公平な扱いだ」ということを訴え続けました。ついに学校側もその根気に負けて、試験を受けさせてくれました。

 それで高校に入学をし、また大学に入学をし、卒業をして今の財務省、当時の大蔵省に入ったんですけれども、大蔵省の役人になりましたときには、もう30歳近い年齢になっておりました。

 まあ、こういう人生をおくってきた男ですので、スポーツなどにも色々チャレンジをいたしました。松葉杖がつけるようになりますと、すぐ剣道や登山を始めました。山登りです。で、僕も小さい頃よく父に連れられて山登りに行きました。が、もうその時は松葉杖ではなくて、ステッキをついて父は山を登っておりました。

 で、一緒に日本アルプスの燕岳という名前の山がありますが、この燕岳に登ったことがあります。まだ小さい時ですから、飛行機に乗ったことがありません。その燕岳の頂上に行った時に、初めて目の下に雲の海、雲海を見ました。「まあ、本当にきれいなものだなあ」という印象は、今も強く残っています。

 また、その晩、燕岳の山荘、山小屋でライスカレーを食べました。お肉も入っていてとても美味しいライスカレーでしたが、翌日聞きますと、その肉はウサギの肉だったということで、「ウサギさんの肉を食べたのか」と思って、小さい胸を痛めたこともございます。

 また、父は他にも水泳なども大変好きでしたが、最初は足が不自由でしたので、昔「のし」といいましたけれども、横泳ぎぐらいしかできませんでした。それが、僕が小学校の高学年の頃だったと思いますが、「クロールの勉強をする」と言って、明治神宮の外苑のプールに通いはじめました。

 それから何カ月経った頃か覚えてませんけれども、ある日、たぶん日曜日だったと思いますが、母と私に「一度プールに来て、僕の泳ぎを見てくれないか」と、こう声をかけました。そこで、母と一緒に明治神宮の外苑のプールに行きますと、父が本当に、もうゆっくりゆっくりした泳ぎですけれども、50mのプールを行ったり来たり、行ったり来たりして、まあ何千mかの距離を泳ぎ切りました。それを見ていて、「我が父ながら、たいしたもんだなあ」と思いました。

 また、当時ちょうどゴルフが流行をはじめた頃で、「ゴルフもやってみたい」といって家の庭に、当時としてはまだ珍しいゴルフのネットを買って来て置きました。ところが、左足が不自由というか、短いものですから、重心の移動がうまくいきません。このためゴルフはすぐに諦めました。

 で、その次に挑戦をしましたのは自転車でございまして、まあ「右足より左足が短くてもこげるような、特別なペダルを作ろう」と言って、自転車屋さんを家に呼んできて、一緒に机の上に設計図を開いて作っておりました。その自転車そのものは見事に出来上がりましたけれども、ちょうど、その頃に病気になりまして、そのまま自転車は物置の中で日の目を見ないで終わりました。

 こうした父の経験から、私どもが教えられることは一杯ございましたけれども、こうした父の体験が私達兄弟にとっては、時には迷惑、時には少し重過ぎるというような感じをしたこともございます。それはどんなことかと言いますと、例えば、僕達兄弟が試験の日が近づいてきて、机に向かって勉強をしています。

 そうすると父が帰ってきて、私達の肩をポンポンと叩いて「いや~、お前達はうらやましいね。好きな時に好きなだけ勉強ができて。お父さんなんか、勉強がしたくても学校にも行けずに、もう本当に辛い思いをしたもんだ。いや~、お前達は勉強ができてうらやましい、うらやましい」と、こう言っていきます。

 父は7年間、青春時代、学校にも行けずに病院で寝ていましたので、それは本音の思いなんでしょうけれども、嫌々机に向かっている私達からすれば、「何を嫌味を言うんだ」としか思えませんでした。

 また、父はそうやって7年間も子供の頃、青春の時代、病院で寝ていましたので、「自分の体力をどうやってつけていくか」ということに強い関心を持っていました。ですから、体に良い飲み物、体に良い食べ物というのは、まあ何でも試していました。

 そうした中で、今もあるのかもしれません。魚、イワシの脂などから作った「肝油」という飲み物がございますが、この肝油が自分の体力をつけるのにとても役立ったという体験をもっておりましたので、子ども時代、兄も私もこの肝油を毎日のように飲まされました。

 後になりますとカプセルに入った物だとか、甘い糖衣錠の物だとか、そういう肝油もできてきましたけれども、当時はそのまま生の油を蓋に取って飲むというやり方でございました。で、これが、もうものすごく生臭くて、飲み終わった後もゲップが出ますと「むかぁ」と、こうくるような物でしたので、毎日毎日、何とも辛い思いをしましたし、父の目を誤魔化せる時はキャップに取って、そのまま庭に捨てたりもしておりました。

 まあ、このように色んな経験を父からはもらいましたが、その父は私が高校の1年の時に亡くなりました。原因は喉の喉頭癌でございました。が、父はそれまでにも何度か癌を発症をしておりました。それはなぜかと言いますと、父の父、つまり私のじいさん、祖父でございますけれども、ビール会社を興して成功をしておりました。まあ、お金持ちでございました。

 ですから、父が小学校5年に発病をした時に、当時では近代的と言われる、先端的と言われる医療を様々試しました。その中にレントゲンの照射がございました。けれども、大正の初めの時代でございますので、たぶん今のように「レントゲンはどれだけ受ければ安全か」というふうな、被爆線量の基準などもしっかりできていなかったのではないかと思います。まあ、こんなことから、父は若い頃から皮膚癌などを何回か発症させておりました。

 ですから、その喉の癌、喉頭癌になりました時も、自ら告知を受けて戦っておりましたが、亡くなる年の正月に、家で母と兄と私を呼んで話をしました。「自分は喉の癌にかかっていてもう余命幾ばくもないかもしれない。

 だけど、これだけ科学技術が発達した時代だから、いつ何時素晴らしい治療法や、素晴らしい薬ができるかもしれない。だから、僕は最後まで諦めずに戦う」という話をしました。しかし、そのかいもなくその年の10月に父は57歳で他界をいたしました。

 この父にとりまして、私を産んでくれたというと表現がおかしいですが、私の母は実は2度目の妻でございました。と言いますのも、兄を産みました兄の実母が若くして亡くなりましたために、その後添えとして入ってまいりました、後妻として入ってまいりましたのが私の母だったからでございます。が、私は、高校1年で父を亡くすまで、母と兄が実の親子ではないということを全く気づきませんでした。

 と言いましても、その間に「ちょっと変だな」と思ったことがなかったわけではありません。例えば、中学に入学した時のことでございますけれども、学校に色んな書類を出します。その中に戸籍謄本がありました。何気なく戸籍謄本を見てみますと、僕の続柄の所に「長男」と書いてございました。

 このために母に「お母さん、僕が長男になってるよ。兄貴がいるのにおかしいね」という話をしました。そしたら母親はもう何気ない顔で「へえ、おかしいね。それは何か役所の間違いだろうね」と、こう答えましたので、自分もそのまますっかりそのことは忘れておりました。

 それから数年経ちまして、父が亡くなった通夜の晩のことでございます。多くの弔問の方々がお見えになりました。その弔問客のお一人が、私の方に近寄ってきて「あなたが○○子さん」、女性の名前ですが、「○○子さんのお子さんですか」と、こう訊ねられました。その「○○子さん」という名前は、私の母の名前ではございませんでした。私は結構、敏感な方ですので、それを聞いて「うーん、何かあるな」ということを感じました。

 と言いましても、それが原因だというわけではないんですけれども、父が亡くなってから、父の残した書類だとか本だとか、そういうものを父の思い出と思って見ておりました。そうしましたら、その中に非常に古い新聞の切り抜き、もう色が黄色く変わったような新聞の切り抜きがございました。

 それを見ておりましたら「橋本龍伍氏は・・・」橋本龍伍というのは私の父の名前ですが、「橋本龍伍氏は、大野何某の娘婿で・・・」と、こういう表現が出て来ました。で、その記事を見まして私は「ああ、そうだったか」と思ったことがあります。それは何かと言いますと、その「大野さん」という方、お爺ちゃんとお婆ちゃんなんですけれども、毎年のように、もう季節毎に我が家を訪れる方でございました。

 が、私の知る限り、親戚の方でもございませんし、父のふるさと岡山の関係の方でもございません。また、大蔵省時代の役所の先輩でもございません。ですから、「どういう関係の人かなあ」とずっと思い続けておりましたが、その新聞記事の「橋本龍伍氏は大野さんの娘婿で・・」という記事を見て、「ああ、そうだったのか。大野さんのお爺ちゃんとお婆ちゃんは、兄の実のお爺ちゃん、お婆ちゃんだったんだなあ」ということを知りました。

 ただ、そのことをいきなり母に言うのも何となく恥ずかしいような、言いにくいような気がいたしましたので、数日経ってから、母が風呂に入っております時に、窓越しに「お袋、僕は兄貴とお袋との関係を知ってるからね」という話をいたしました。

 そうしたら、まあ母も然る者で、全然驚いた、動じた様子もなく「ああ、そうかい。いや、実はもうお前も高校生になったから、そろそろきちんと話をしておかなきゃいけないねと、龍太郎と言ってたんだよ」そんなふうに言いました。

 このように、私は高校1年になって父が亡くなるまで、母と兄が血の続かない、なさぬ仲だということを全く気づきませんでしたけれども、気づかないほど2人の関係は自然な関係でございましたし、その点は、今もたいしたものだと関心をしております。

 その母は、今から4年前の暮れに亡くなりましたが、亡くなる前、10年前に脳溢血の発作で倒れまして、それからほぼ10年間ほど半身不随、障害をおって寝たきりの生活をしておりました。こうした母の姿を見て、私も見舞いに行きたいといつも思っておりましたけれども、その後、間もなく、あの昭和天皇のご病気、そして昭和の終わりの取材をNHKの記者としてしておりましたので、大変忙しくなりました。

 また、その後、この高知県の知事になりましてからは、高知に移り住んでしまいましたから、ほとんど見舞いに行けませんでした。それに引き替え兄は、大蔵大臣ですとか、通産大臣ですとか、また総理大臣ですとか、様々な職にありながらも、必ず1週間に一遍ぐらいは時間を作って母の見舞いに行ってくれておりました。

 そのことにはいつも頭が下がりましたが、「そればっかりじゃあ少し差がつき過ぎるなあ」と思いまして、ある時、もう数年も前、何年も前のことでございますが、この高知に母を呼び寄せて、8カ月間ほど高知の病院で暮らしてもらったことがございます。

 その時には病院の許可を得て、知事公邸の方にも呼んで幾晩か添い寝をして寝たこともございましたが、高知の気候風土がたぶん合ったんだろうと思います。リハビリが大変進みました。その結果、高知に来る時は飛行機の一番後の座席三つ外して横になって、ベッドの形でこちらに飛んでまいりましたけれども、帰りがけには一番前の座席に座ってシートベルトをして1時間そのまま乗っていくことができるようになりました。

 また、東京に帰りましてからも、それから数年間、病床で頑張ってくれましたが、それも高知でのリハビリが効いたためではないかと思いますし、改めてその時リハビリの大切さということを実感をいたしました。

 が、私は、その母が最初に倒れて半身不随の状態になりました時に、その姿を見て「ああ、可哀相になあ」と思い、「いっそのこと発作が起きた時に亡くなっていたら、母も楽だったんじゃないか」と、一番最初の時は思いました。

 と言いますのも、後ほどちょっとお話をいたしますように、母は70を過ぎても仕事をしておりましたし、「死ぬのであれば、仕事中で良いからバタッと倒れて死にたい」ということを重ねて言っておりました。ですから、その意に添わず助かってしまって半身不随の形で寝ている、その自分自身がもどかしいのではないかと思って、その姿を見て「あの時、そのまま亡くなっていれば楽だったんじゃないか」と最初は思いました。

 しかし、それから2年、3年、4年と、母が病床で頑張っている姿を見ております内に、「どんな姿になっても、障害をおっても、そうやって母が生きていてくれて頑張ってる。その姿自身が自分達兄弟を励ましてくれるな」ということを感じました。

 母は、そうやって体は半身不随でございましたが、頭の方は非常にしっかりしておりましたし、口も、もう耳を近づけないと聞こえないぐらいですけれども、ほんのわずか言葉を発することもできました。ですから、私が高知県の知事になったこと、また兄が総理大臣などになったことも知っておりましたし、そのことを知って逆に私達を励まそうと頑張ってくれていたのではないかと思っています。

 もう今から7年前のことになってしまいますけれども、僕が2度目の選挙で当選をした後も、母の見舞いに行きまして「選挙でまた知事に選んでもらったよ」と、こういう報告をしました。そうしたら母が、寝たままで口を何かもぐもぐとさせております。

 そこで耳を口元において、その話を聞きますと、「あんまり世間を甘く見ちゃいけないよ」と、こう言っておりました。別に、私は世間を甘く見ているつもりはありませんでしたけれども、「母親から見て子どもというのは、幾つになっても子どもなんだな」と、その時思いましたし、また、「そうした母親の言葉をありがたく受け止めよう」とも思いました。

 先ほども言いましたように、母は70過ぎた後も仕事をしておりましたが、その仕事は国連の児童基金、ユニセフの日本協会の仕事でございました。そもそも、このユニセフの仕事と母を引き合わせたのは父でございますが、私が子どもの頃はまだ海外旅行が自由にできるという時代ではございませんでした。

 1ドル360円で、その円の持ち出しにも大変な規制があるという時代でございます。そういう時代でしたので、母に長い海外旅行をさせたいと思った父が、その理由付けとしてユニセフの日本協会の理事という仕事を持ってきて、そのユニセフの「世界の事情の視察のため」という、そんな理由をつけて海外旅行に行かせました。

 まあ、それがきっかけでございますが、母はそのユニセフの仕事に大変関心を持ちまして、父が亡くなった後、母が50前後の時でございますが、その後20年あまり、日本ユニセフ協会の専務理事として、「世界の恵まれない子ども達のために」という思いで、世界中を飛び回って仕事をしておりました。

 その発作で倒れた日も、そのユニセフを支援をする国会議員の連盟ができるという日でございまして、その日の演説の草稿ですとか、下書きですとか、また準備で何日も徹夜のような生活をしておりました。

 また、暑い真夏でございましたけれども、ちょうど海外から戻ってきたばかりで、にもかかわらず、休みもとらずに仕事をしたのが、まあ無理がたたって発作に繋がったのではないかと思っています。けれども、仕事の途中に倒れたということ自身は、母にとっては本望だったんではないかなということを思います。

 まさにその暑い夏でございましたので、母が倒れた当日は、私は実は夏休みで海外に出ておりました。ですから、母の元気な姿を見たのは、その「旅行に出かけるよ」と言って、東京の母のマンションを訪ねて、そこで「行ってきます」と言って手を振って別れたのが最後でございますが、母が亡くなりましてから仏壇の横に母の元気だった頃の写真を掲げましたら、その元気だった頃の母親が戻ってきたような気がいたしました。

 と言うと、少し変な表現に聞こえるかもしれませんけれども、病院で寝たきりで半身不随になってる母の姿は、やはり、自分自身がずっと持っておりました母のイメージとは違っておりました。そうしたことが、なかなか、見舞いに行ってその母の姿を見るのが辛いということから、見舞いの足が遠ざかる心のバリアーになっていたのかもしれません。

 けれども、亡くなってお仏壇の横に、元気だった頃の、ニコニコッと微笑んでる母の写真を置きますと、元気な母が戻ってきたという気がいたしますし、毎日毎日そんな母の写真に「行ってくるよ」と、こう言いますと、母も「行っといで」と、こう声を返してくれるような気がしております。

 ということで、父のこと、母のこと、少し長々とお話をいたしましたが、うちの両親は私達の兄弟が小さな頃、よく芝居だとか、コンサートだとか、展覧会、そういうものに連れて行ってくれました。僕が幼稚園の頃だったと思いますが、歌舞伎座に歌舞伎を見に行ったことがあります。

 たぶん、菅原伝授手習鑑ではなかったかと思うんですけれども、小さな子どもが母親の足元にしゃがみ込んで、その着物の裾をつかんで「かか様、かか様」と泣くシーンがございました。

 なぜかは全く覚えておりませんが、そのシーンにいたく私は感動をいたしまして、家に帰りましてから嫌がる母親を追いかけまして、当時、長いスカートの時代でございますから、母親の足元に座り込んで、その長いスカートの裾をつかんで「かか様、かか様」と、ひとり悦に入って母を困らせたこともございました。

 また、これは小学校の高学年のことでございますが、上野に西洋美術館という美術館がございます。ここで近代・現代の西洋の画家の美術展がございました。今振り返ってみれば、近代・現代の有名な画家の絵はほとんど来ていたという、大変大きな展覧会でございましたが、その展覧会を見ましたとき、私はゴッホの絵を見ていたくこれも感動をいたしました。

 棟方志功さんではございませんけれども、「僕もゴッホのようになりたい」と、こう思いまして、家に帰ってすぐ画用紙とクレヨンを取り出して一心不乱に見てきた絵を思い出して太陽の絵か何かを書きました。

 30分経ったか1時間経ったか忘れましたけれども、出来上がった絵を見ましたら、子どもながらに「これは才能がないな」ということが分かりましたし、当時からあきらめは良い方でございますので、すぐ絵描きになる夢はあきらめましたが、このように、子供の時、あちこち連れて行ってもらって色んな物を見た。

 その時の思い出は今も強く心に残っていますし、そういう小さい時の経験、体験というものが、自分自身の感受性だとか、創造力というものを養う上で大変役に立ったということを思います。そんなことから、自分の子どもが小さい頃には、子ども達もよくあちこち一緒に出かけて連れて行って体験をさせようということを心がけました。

 ということで、父と母の話を少し離れて、今度は妻と2人の子ども達、うちの家庭のことをちょっとだけお話をしてみたいと思いますが、私が妻と初めて出会いましたのは、NHKの記者になって初めて赴任をいたしました福岡・博多でございました。当時、妻は前のご主人を病気で亡くして、未亡人としてNHKの嘱託として働いておりました。

 その後の色んな経過は、あまり教育的でない話もございますので、少し省きますけれども、妻が引っ越しをした時に手伝いをしまして、その後、妻の家に住み込んでしまったというのがきっかけでおつきあいが始まり、大阪に私が転勤をしましたあと結婚をいたしました。

 が、妻には2人の小さな男の子が、今は私の子どもでございますが、2人の小さな男の子がおりました。結婚当初、小学校1年生徒3年生でございましたので、その結婚を前に、自分はその妻にとって良い夫になれるかどうかということ以上に、2人の子ども達にとってちゃんとした父親になれるかどうかということが一番の悩みでもあり、問題でもございました。

 ですから、妻がその子ども2人に対して「橋本さんと結婚をしたいと思うんだけど・・」という話をした時に、子ども達が手を叩いて喜んでくれという話を聞いた時、とても嬉しく思いました。

 また、大阪に越して一緒に暮らし始めてからのことでございますが、最初のうちは「大ちゃん、大ちゃん」と、こう愛称で呼んでおりましたが、その内、突然「親父」とか「お父さん」と言ってくれるようになりました。

 あとで訊きますと子ども達、小さな兄弟が話をして「そろそろ大ちゃん、大ちゃんじゃなくて、お父さん、親父と呼んであげようよ」と、まあ申し合わせをしたということなんですが、「お父さん」と、やっぱり最初に呼ばれた時には胸にグッと来るものがございましたし、またそれと同時に、そういうことをきっかけに、小さなことでも一緒に本当に喜び合えるようになりましたし、また面と向かってケンカもできるようになりました。

 で、これはもう東京に転勤をした後のことでございますけれども、長男が高校の受験をいたしました。第1志望は私立の高校でございましたが、妻がその入試の合否の発表を見に行きますと名前が出ておりませんでした。それでがっかりをして帰って来て、まあ家中なんか暗い雰囲気に包まれておりましたが、数日後、妻が郵便受けに新聞を取りに行きましたら、その学校から何か手紙が来てるというんです。

 そこで、みんなで開けて見ますと、なんと「補欠合格を認める」という通知のお知らせでございました。その当日も別の高校の入試がございましたけれども、「もうそんなものは止めちゃえ」と言って、みんなでバンザイ、バンザイをしながら朝飯を食べたのも、大変楽しい思い出でございます。

 一方、長男とは何度か大声でケンカをしたこともございます。その一つは、よく「夫婦ゲンカは犬も喰わない」と、こう言いますけれども、夫婦ゲンカ以上に犬も喰わないくだらないことがきっかけでございました。それは何かと言いますと、アイスクリームが原因のケンカでございました。

 と言うのも、僕はアイスクリームが大変好きでございまして、今はちょっと下っ腹が出て来ましたのでかなり控えておりますが、当時はもう毎日のようにアイスクリームを夜舐めておりました。で、ある晩、僕が居間でアイスクリームを食べておりますと、長男がやってきまして「あ、親父、アイスクリームまだある」と、こう訊きます。

 その言葉を聞いた途端に「残り少ないアイスクリームをこいつに取られちゃいけない」という防御反応が即座に働きましたので、「いや、もうないぞ」と、こう言いました。そうしましたら、長男が「本当か」とかなんか言いながら冷凍庫を開けますと、まだ数本アイスクリームが残っておりましたので、「親父、嘘つくな、アイスクリームあるじゃないか」と息子が言いました。

 それを聞いた途端に「これはもう父親の威厳が危ない」という思いもございましたし、また「嘘をつくんじゃねえ」と言われたことにカッとしたこともございまして、「お前、親を嘘つき呼ばわりするとは何事か」と、「昔から“嘘つきは泥棒の始まり”と言う、だから親を嘘つき呼ばわりするということは、俺を泥棒呼ばわりしてるのと同じ事だ。

 ひいては、それを犯罪ということで言えば人殺し呼ばわりしてるのと同じ事だぞ」と、こう自分でもわけの分からんような理屈をまくし立てまして、長男との間で大ゲンカになりました。

 まあ、後で長男に話を聞きますと、たかがアイスクリームの話が泥棒の話になり、ついには人殺しの話にもなったので、その時点で長男としては「もう、これはいかん。」と、戦意を喪失したそうでございますけれども、まあ、そんな思い出のある長男にも、もう既に2人の男の子、私どもから見れば孫ができております。

 名前は真之介と晃之介という、何か時代劇に出て来るような名前でございますけれども、上の真之介はもう今年から小学校に入りました。が、まあ孫達、息子達は埼玉の方に住んでおります。私達夫婦は高知の方で暮らしておりますので、滅多に会う機会がございません。ですから、時には東京に行った時、向こうの、息子の家族にも東京に出てきてもらって、東京のホテルで一緒に過ごすというようなことをしております。

 そうしますと、ホテルのお風呂には洗剤を入れてお湯を入れますと、お風呂中が泡だらけになるというような洗剤がございます。で、孫がこれを見つけて、これが大好きになりまして、ホテルに泊まる度にその泡のお風呂に一緒に入らされます。

 ぬるいお風呂に30分、40分つかりながら一緒に泡をジャバジャバして遊びますので、もうこっちはのぼせ上がってグッタリくたびれてしまうんですけれども、「まあ、こんなことも幸せのかけらかな」というふうに思うようになりました。

 ということで、父や母のこと、そして自分の家族のことなどを縷々お話をいたしましたけれども、私は父の生き様、また母の生き方から、様々なことを学び取りました。また感じ取りました。そしてそのことの幾つかは、自分達の子ども達にも伝えてきたつもりでございます。

 が、今はもう逆に子ども達から教えられる。また孫達から色んなエネルギーをもらうという立場になりましたが、それと同時に、こうした家族や家庭ということを考えますと、やはり人との出会い、巡り合わせの大切さということを、改めて感じざるを得ません。

と言いますのも、先ほどお話をいたしましたように、私の母と兄とは血の繋がらない、なさぬ仲の関係でございました。また、私と2人の息子達、2人の孫達も、その意味では血の繋がらない、なさぬ仲の関係でございます。また、妻の半生というものを振り返ってみますと、宮崎に生まれて結婚をして福岡に行き、そこで前のご主人を亡くして私と巡り会い、それから子供と一緒に大阪に行き、そして東京に行き、今は2人で高知で暮らしております。

 このようなことを考えてみますと、人に一生というものは、人との色んな出会い、巡り合わせでできているんだということをつくづく感じます。それぞれの巡り合わせには良い巡り合わせも、悪い巡り合わせもあると思いますし、またそういう巡り合わせをうまく生かせる人も、そうでない人もいると思います。

 けれども、そうした中で、本当に仲間として、また家族として絆を結びあっていける人が1人でも、2人でも増えてくれば、それだけでどんな苦しいこと、辛いことがあってもそれを乗り越えていけるのではないかということを、自分の50年あまりの人生経験の中から感じております。

 ということで、少しこじつけになるかもしれませんけれども、皆様方のお仕事も、まさに毎日毎日が出会いと巡り会いの積み重ねではないかと思いますし、また、その中でどれだけの絆を、強い絆を作っていけるかということが、障害者の皆さんの、またご家族の皆さんの自立の手助けになっていくことではないかということを思います。

 そこで、最後にもう一度、皆様方のお仕事に関わりのある話題に話を戻したいと思いますが、知的障害児・者の問題だけではなく、障害者のこれからの問題を考えます時に、親御さんが亡くなられた後どのように自立をしていくのか、またその自立を助けていくのかということが、大きな社会全体の課題ではないかと私は思います。

 そこで、そうした自立への取り組みを、高知の県内での取り組みからご紹介をさせていただきたいと思いますが、その一つは、高知の市内にございます「ひまわり工房」という、個人で経営をしてらっしゃる通所の作業所でございます。

 この工房を経営をしてらっしゃる女性は、かつて11年間の特殊学校の経験も持つ、30年間中学校の教員として勤められた方でございましたが、その特殊学級の教員をしておられました時に、障害者の父親から、お父様から、「神様は、自分に200年生きていろと言うんだろうか」と、こういう話をされて、「子ども達の自立を手助け、何かできないか。そういう仕事をしてみたい」と思って、50歳で教員を辞めてトラバーユ、転職をされたのがこの工房でございました。

 工房での作業は、特殊学級の時から授業の中に取り入れておられましたスウェーデン刺繍を使ったテーブルセンター作り、また「土佐紬」という土佐の伝統の織物を使いました袋作りなどでございますけれども、「障害者だからこの程度で良いということは絶対にしない。納得のいかない作品は絶対にお納めをしない。納品をしない」ということを基本的な考え方、ポリシーとして、設立以来12年やってこられました。

 当初、先生一人、生徒一人で始まった工房でございますけれども、今は先生一人、それに補助の指導員の方一人、そして生徒さん5人という7人の体制になっております。補助の指導員の方には補助金が出ておりますけれども、その他は、もう一切行政の支援を受けずに、作品を売ったその販売のお金で、その工房全体を経営をしておられます。

 こういう長年の積み重ねの結果、毎年何回か特定のギャラリーなどを借りて展示会を開くことができるようになりましたし、多い時には10日間で2,500人~3,000人という方が訪れて、それで100万円以上の売上のあることもあるということでございました。

 このような取り組みは、各地域にも幾つか、また幾つもあると思いますけれども、こうしたことで注目すべきことは何かと言いますと、障害者といいますととかく「能力が劣っている」とこういうふうに考えがちでございます。ある分の能力は劣ってる面があるかもしれません。しかし、違う面では、普通の人にはない力、才能、能力を持ってる。そのことをいかに引き出していくか、ということではないかと思います。

 今申し上げた事例で言えば、織物をしていく、また袋を作っていく、そういう決まった作業をきちんとお教えをすれば、そのことを、もう健常者以上にきちん、きちんと同じ物をずっと作り続けていける。そういう集中力、また、それを作るにあたって、自分の感性をストレートに出していける芸術性といったものが、他の人には真似のできない才能、力ではないかと思います。

 で、こうした力を引き出していく、そのことが対等に競い合っていく場を作る、まあ自立の場を作る一つのポイントではないのかなということを自分なりに感じました。

 また、こうした作業場だけではなくて、工場の形で障害者の方々が中心になった工場経営をやっていく、そういう取り組みも幾つか出てきております。その中の一つに、これも高知市の東隣にございます南国市にある「ダックス四国」という会社がございます。

 この会社は、広島県の福山市にございます会社の特例子会社、まあそういう制度をご存知かと思いますが、特例子会社でございまして、今は重度の障害者の方を多数雇用する作業所の認可も受けておられます。

 作っておられます製品は、お弁当やお総菜、お刺身などを入れる容器の蓋に使います、あの透明なプラスティックの蓋でございますけれども、もう始めまして5年経ちますが、今では社員25人のうち16人の方が知的障害者の方々、お一人が聴覚障害者の方々で、給与の面でも手当を含めて、最低の方でも13万5千円ということでございますので、一般の企業と比べても、決して見劣りのしない水準にまでなっているのではないかと思います。

 実は、この会社の社長さんに数年前声をかけられまして、県内のあるスーパーマーケットに働きかけて、その特例の子会社としてスーパーで使われる発泡スチロールのトレーがございます。このトレーをリサイクルする、再生産をする工場の立ち上げのお手伝いをいたしました。今「エコライフ土佐」という名前で会社は立ち上がっておりますし、ここでも重度の方も含めて知的障害者の方々が勤務をしておられます。

 このように、取り組みの仕方は色々、作業所の形、工場の形、様々あろうと思いますけれども、自立を目指して、自立の支援をしていくというところの共通点は何かというと、「障害者だからこの程度でいい」という甘えをしない、甘えをさせないという点ではないかと思います。

 この「ダックス四国」の社長とお話をしましても、その社長はいつも言うことで「経済的な自立がなければ、ノーマライゼーションというものはあり得ない。で、そのためには、障害者だからこの程度だという甘えをまず捨てなきゃいけない」ということを言っておられます。

 あわせて、この社長の将来の夢は何かと言いますと、こういう障害者の方々が中心になった工場をあちこちに造り、それをネットワーク化をして、その全体を株式を上場をし、その株を知的障害者の方に持っていただく。「知的障害者を株主にすることだ」という話をしておられました。と言いましても、勿論、重度の障害のある方々への福祉という視点は忘れてはいけないことですし、このことにはきめ細かく心を配っていかなければいけないと思っています。

 しかし、その一方で、重度の方も含めて、ただ単に税金のご厄介になるという立場ではなくて、自ら納税者になっていく、自立を目指すということは、これからの流れとして絶対に必要な視点、方向性ではないかと思いますし、そうした方向性、試み、各地域で出て来ています。そういうものを、きちん、きちんと支援をしていくような体制を是非とっていければなということを思っております。

 ということで、今日は、私自身が知的障害者の問題、また施設の問題で関わった思い出や、知事になってから取り組んできたことの一端、更には身体障害者だった父の話、家族の話など縷々お話をいたしました。といいましても、自分自身は、やはり恵まれた環境の中で育ってきた男でございますので、そんな立場で皆様方に「ああせえ、こうせえ」と言うのは、大変口幅ったい思いがいたします。

 けれども、父のことを振り返ってみますと、繰り返しになってしまいますけれども、7年間、青春時代、思春期の時代を病院のベッドの生活で暮らしました。学校にもその意味では行けませんでした。まあ、ある意味では、決して幸せな巡り合わせの人生ではなかったと思います。けれども、そのことにめげず、負けず、いつも明るい前向きな姿勢で色んなことにチャレンジをする男でした。

 こうしたことから考えますと、皆様方が毎日毎日相手をしておられる障害者の方々、またご家族の皆さん方、それぞれに大変辛い思い、また苦しい環境を背負っておられると思います。しかし、そういう辛さ、悩み、苦しさということに負けてしまわずに、うちひしがれてしまわずに、そこに明るさを見出し、力強さを見出して明日に希望を持って立ち上がっていく。

 そういう支援を是非皆様方にしていただきたいし、そのためにも、やはりお互いの絆ということが必要です。仲間としての絆、家族同様の絆、そういうものを一人でも多くの皆さん方との間に築いていただければ、そのことが、やがてはそうした皆さん方の社会的な自立に繋がっていくのではないかと思います。

 私もまた、知事として、そういう皆様方のお仕事をできるだけ手助けをしていきたいということをお約束をして、私の話を終わらせていただきます。
 どうもご静聴、ありがとうございました。

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