土佐塾中高等学校創立十五周年記念シンポジウム

公開日 2007年12月07日

更新日 2014年03月16日

土佐塾中高等学校創立十五周年記念シンポジウム

平成15年3月15日(土佐塾中高等学校体育館)

(パネリスト)
 許斐博史(重症心身障害者施設「中川の郷」施設長)
 國弘正雄(エジンバラ大学特任客員教授)
 橋本大二郎(高知県知事)

(司会)
 山田洋司(梅の辻クリニック院長)

(項目)
 ・理事長挨拶
 ・第一部
  ・司会挨拶
  ・許斐博史の講演
  ・國弘正雄の講演
  ・橋本大二郎の話
 ・第二部
 

(理事長挨拶)
 今日は。お足元の悪い中をまたこういう天候の中、いろいろとご事情もある中を皆様方にお集まり戴きまして、それから生徒さんにとりましては少し話が難しいかもしれませんが、これを中学二年になれば聴けるだけのそういう生徒に育ってきていると思います。敢えて中一と高校三年生は受験もありますので今回参加しておりません。

 こういう中を東京やその他各地からパネリストの方おいで戴き、また、知事さんには超多忙の中を本日来て戴いております。橋本大二郎知事さんは、ここでシンポジウムは2回目でございます。そして私共の学校は今年丸みますとこの四月で丸十六年を迎えてしまいます。ですから十五周年の記念の行事としてはこれが最初で最後である。

 我々はもっと頑張ってこれを機会に二十周年と言うのを見据えて四年後に日頃言っています我々の創立の理想に近付けたい、こう考えております。いよいよ二十一世紀も、二十一世紀もですね、2003年でございますから、2001年から三年間経ったわけでございます。ここでこの二十一世紀を考えてみよう。そのためには変革をしなければならない。こういうことでございます。

 変革の知事、橋本さんをお迎えして、そうしてパネリストの方々はそれぞれ斯界の権威でございます。どうか皆さん、途中でビデオもありますので、これだけのお話がしっかりと、また会場へも呼びかけますのでお応えが出来るように。今日この会が持てますことも我々は大変な誇りと思っています。

 どうか皆さん方がきちんと聴いて戴く、これが本当に有り難いことでございます。どうかこういう、足元の悪いところでございまして、車で来られた方随分とご迷惑であったかと思います。どうかひとつ意義有るシンポジウムにして平成十六年に向かって我々はかけていきたいと思います。

 どうか最後までご清聴、またご質問、ご参加等、一緒になってシンポジウムでございますからこの会が成功することを祈り、またこういう中をわざわざお越しいただきましたパネリストの皆様方に対しまして深く、厚く御礼申し上げます。それではみんな、いいですね。このシンポジウム意義有るものにしたいと思いますのでご協力をお願い致します。有り難うございました。
 

【第一部】
 

(司会挨拶)
 皆さん、今日は。本日はようこそ、土佐塾中高等学校創立十五周年記念シンポジウムにお越しくださいました。心よりお待ち申し上げておりました。本日のシンポジウムは「二十一世紀を語る」と題し、テーマを「自己変革の時代を往け!」として開催されます。

 このようなテーマのもと、社会の第一線でご活躍されている三人のシンポジストの方をお招きしております。私は本日の司会進行役を担当させていただきます山田洋司と申します。高知市の梅ノ辻クリニックで脳神経外科医師として働いております。どうぞよろしくお願い致します。

 本日のシンポジウムを始めます前に、なぜ「二十一世紀を語る。自己変革の時代を往け」をテーマとしてこの催しが開かれたのか、その経緯からお話したいと思います。私たちは今、二十一世紀の初頭にいるわけです。それはまた二十世紀を振り返るのには絶好の位置にいるともいえます。

 二十世紀、人類は物質的な繁栄を謳歌してきました。便利さや、快適さ、これらを追求してきたあまり、その一方では地球規模の環境汚染、乱開発、これらによって暗黒面は数え上げれば枚挙に暇がありません。

 この八方ふさがりとも言える現実は私たち一人ひとりが関わって起こしているという事実を前にした時、一度今までの考え方を振り返ってみようじゃないか、そしてなぜこのような時代になったのか。私たち一人ひとりはこれらの山積する問題に対し何ができるのか、ということを共に考えてみたいと思ったからです。壇上から皆さんのお顔を拝見致しますと、受験勉強や友達との人間関係で悩んでいた私自身の学生時代のことを思い出します。

 本日お招きしましたシンポジスト三人の方々もおそらく青春を謳歌した学生時代を過ごしてこられたことと思います。現在はそれぞれの分野でご活躍なさっておられますが、今の皆さんと同じ悩みを抱いた学生としてスタートがあったわけです。今日までの歩みにおいて様々な出来事、出会いがあり、その中から見方や考え方の転換、これらがおありになったことと思います。

 ですからこれからの二時間三十分の時間は私も皆さんと一緒に三人の方々のお話をじっくりと聴き、その中でああこんな考え方があったのか、こんな生き方があったのか、驚きや発見これらが人生に役立てていけるのではないかということですごく楽しみにしています。ですからこのシンポジウムの皆さんが人生を歩んでいくにおいて、本当に皆さんの人生において少しでも参考になれば、これに過ぎる喜びはありません。

  これからシンポジストの方々に講演をお願いするわけですが、皆さんと同じ一学生であった先輩からのお話としてお受けしたいと思いますので〇〇知事とか〇〇教授、〇〇先生という肩書きではお呼びせずに全員をさん付けで呼ばせて戴くことをお許し戴きたいと思います。皆さん、よろしいですね。ありがとうございます。それではよろしくお願い致します。

 このシンポジウムは二部構成となっております。第一部は社会で活躍されている方々が世界に生じている問題困難に焦点をあてられて、どのように道を切り開いていくのか。第二部ではその道を開いて行く時にもっと身近な私達の人生に生じている問題、これらに焦点をあてていきたいと思っています。そして本日のテーマである自己変革が問題解決にどのような力を発揮していくのかこれらを共に考えていきたいと思っています。

 それでは三人のシンポジストを御紹介申し上げます。まずお一人目は許斐博史さんです。埼玉県にございます重症心身障害者施設「中川の郷」の施設長でございます。お二人目は國弘正雄さんです。元参議院議員で、現在は宇都宮軍縮研究室の月刊誌「軍縮問題資料」の編集人でございます。そして橋本知事でございます。

 それではまず許斐博史さんからの詳しいご紹介を申し上げます。許斐博史さんは、1949年生まれ、福岡県出身です。鳥取大学医学部ご卒業後、蛋白質や免疫の研究に従事されました。1983年からアメリカ、ラットガーズ医科大学、ハーバード医科大学で先天性疾患の研究でコラーゲンの研究をされて来られます。1986年から国立精神・神経センター神経研究所の室長となられました。

 さまざまな代謝異常の研究に従事され、1997年より社会福祉法人東埼玉重症心身障害児施設「中川の郷」診療部長、そして2000年より「中川の郷」施設長として現在に至っておられます。本日は当初予定されていましたシンポジストの急病により、急遽ご参加いただくことになりました。本当にありがとうございます。

 お話を伺いますと許斐さんは学生時代物理や化学が好きで、エンジニアを希望されていましたが、高校三年生の二学期のときに「何か人と関わる仕事がしたい」と強く思われ急に医学部へ進路を変更され小児科の医師になられました。現在は重症心身障害児の診療に携わっておられるわけですがその体験からどんなに重い障害をかかえた子供さんも成長することが出来ると強い確信を抱いて日々診療にあたっておられます。それでは許斐さん、よろしくお願いします。
 

(許斐博史の講演)
 皆さん、今日は。私は小児科の医者をしております許斐博史と申します。今紹介して戴いた通りでございますが、今日この場にお招き戴きまして本当に有り難うございました。これからの日本を背負っていく若者達にこのように直接お話しできる機会を戴きまして今心がわくわくしております。シンポジウムの最後までよろしくお願いします。

 私は今紹介して戴きましたように生まれつき体や精神に障害を持っている子供さんたちの専門の病院で働いています。現在六十一名が入院され、また発達障害児の専門外来や訓練には毎日六十名以上の方が通院されております。今出ている部屋は私の病院のリハビリといって体をよく動くようにするような訓練をする部屋です。

 これはレントゲン装置ですけれども左側はCTスキャン、右側がレントゲンの撮影装置です。体の構造をX線で調べる機械です。これは左側が脳波計といって、頭の細胞の活動を調べるものです。右側が歯科治療室といって歯の治療をするんですけれども、これら障害を持っている方達は虫歯一本治療するのでも全身の麻酔をかける必要があります。こういうところで働いております。

 これから話の本題に入ってまいりますが、今日のお話をする前に皆様に大切な三つの問いかけをしたいと思います。それはこの三つの問いかけです。WHYなぜ、WHATなにを、HOWどのようにの三つです。たとえば勉強するということを例にとって説明いたしますと、私達がいつもどのように勉強するのかというHOW  TOですね、どのように勉強したらいいのかということに常に意識が向いております。

 そしてなぜ勉強しなければならないのかWHYですね。それからいったい勉強するということはどういうことなのかというWHAT、ほとんど通常は考えておりません。しかしよく考えてみますとWHYとWHATということは私達が人生の岐路にたった時には大変重要な問いかけであるということを感じております。

 どうぞ今日のお話をWHYとWHATを意識化しながらぜひお聴きになって戴きたいと思います。また今日の話は私の人生と深く関係していますので、司会の方に先程紹介して戴きましたが、それに少し補足させて戴きます。今司会の方から紹介されましたけれども、私は皆さんと同じような時期が勿論ありました。

 中学校、高校生の時代は物理や数学が得意で、また好きでした。当然理工学部に進んでエンジニアになって出来れば飛行機なんかを造りたいなというふうに思っておりました。しかし、高校三年の二学期になって志望校を最終的に決定する直前になって急に物理とか数学に興味が持てなくなってしまいました。

 そしてその勉強をずっと続けることに違和感が生まれてきて目的を失ったような感じになって勉強がもう成績が落ちてまあどうしたらいいだろうかといよいよ悩みました。その時がおそらく一番私の人生の中で本を読んだ時期かなあというふうに思いますけれども、小説なんかや哲学書を読みふけりました。

 そしてそういう中で私の中にうずくような思いがありまして、人間に関わる仕事がしたい、そんな気持ちがわき上がってきてそして医者になりました。次の転換点は四十一歳の時でした。私は最初小児科の医者としてスタートしてその後医学の研究者として大学や研究所で長い間研究をしていました。研究もうまくいっていました。

 そしてやはりそういう時に、やはり同じように私の中に「何か違う」「何か違う」とうずくような違和感が生まれてきました。最初は非常に弱い違和感でしたが、段々とそれが強くなってきて、もう研究を続けることが出来なくなりました。そしてその時も心の中にうずく思いは患者さん達の痛みに直接応えたい。

 強いて言葉で表せばそのような言葉になるんですけれどもその気持ちに素直に従って思い切って当時勤めていた国立の研究所を全て捨てて今の障害を持っている子供さん達の医療現場に飛び込んでいきました。おそらく誰にも必ずこのようなうずくような思いがあると思います。

 今そういう思いが無くても人生を歩いていくうちに必ずそういう思いがありますのでその時にはぜひ立ち止まって今日ここで私が皆さんに問いかけた三つの問いかけをぜひ深めて戴きたいというふうに思います。必ずそういう時が来ると思います。

 そのような気持ちで飛び込んで行きました病院ですが、想像以上に大変な所でした。これは私が診療しているお子さんですが、体を自由に動かすことも出来ず、しゃべることも出来ない方が大勢いらっしゃいました。また、患者さんの死ということにも何度も立ち会いました。亡くなられた一人一人そのお顔や亡くなられた時のことは今でも鮮明に覚えております。

 この方も同じような方です。どうしても治らないこのようなたくさんの患者さん達を前にして私はどのようにしたらよいか分からず、手も足も出ない状態が長く続きました。いつしか私が生まれつきの神経の重い病気は治らない、応えられないと呟いていました。このような時私はこの思いに圧迫されて生活が乱れ、苦しくて、毎晩のようにお酒を飲んで気を紛らす生活が何年も続いていました。

 そのような時に重度の発達障害児の専門施設が新しく開設するということで、今の施設ですけれども単身で飛び込んで行きました。立ち上げに関わったんですけれども、全くゼロからの立ち上げで無我夢中で約六十名の入院患者さんと在宅の重度の患者さん達のお世話をいたしました。そのような中99年の11月から2000年の3月ちょうど開設して2年半たった時点のことでした。

 重症児病棟の先程のような患者さん達が入院されております病棟の看護婦さんが突然6人もやめてしまいました。そして夜勤の勤務がもう組めなくなって病棟閉鎖の一歩手前まで追い込まれてしまいました。私は最初このような原因になったのがよく分からずに、この2年半一生懸命やってきたのになぜこういうことになったのだ。折角ここまで立ち上げてきたのに無責任な人達だ。許せない。と、もう怒りがわき上がってきました。

 そして病棟の責任者を替えたりスタッフの緊急の採用をしたり、もう必死でその対応にあたりました。しかしその原因をはっきりさせなければいけないという友人のアドバイスを受けて一体自分に何が足りなかったのかと思って辞めていった看護師さん達に一人ひとり頭を下げて聞かせて戴きました。

 するとありとあらゆることを指摘されました。たとえばですね、これをいうのは恥ずかしいんですが、先生はプライドが高いばかりで全く実質が伴っていないとかですね、看護師の能力によって接する態度が異なるとかですね、会議を、中に入院されている方の会議の、療育目標会議というのをやっていたんですけれどもそれは先生の自己満足の場だったとかですね、まあありとあらゆることが言われてずっと整理いたしますと全部で190項目もありました。

 最初はもう「馬鹿にするな。俺がいるからこの施設が動いているのではないか。」という思いがふつふつと沸いて来て、もう怒りが治まらなくってしかたありませんでした。しかし、冷静になってそのひとつひとつを点検してみますとただただ納得するしかありませんでした。全ては私の中にあった「俺は出来る。」「俺は分かっている。」という優位の感覚。そして支配、差別的な関わりであったとはっきりと見て取ることが出来ました。

 正に全てのその190項目の問題というのはもう芋蔓、芋蔓って皆さん、芋っていうのは知っておられますかね。表には芋があるんですけれども全部根っこでつながってるんですね。そのようにして根っこでつながっているということが分かってきました。それまで私は自分は「いい人」って言うことを漠然と思っていたんですけれども、呆然と致しました。

 何て自分は愚かなんだろう。申し訳ない。もう二度とこんな事は繰り返さないとその時固く決心をいたしました。しかしそのようなことは頭ではよく分かるのですが、どうしても心が納得しませんでした。もう何日も何日もそのことがぐるぐる、ぐるぐる、頭の中また心の中を回って食事ものどが通らずに悶々とした日が続きました。

 朝、本を開きながら自分の思いを振り返っていた時でした。その本の中に「何も知らずに歩き始めたこの道、迷わずに、間違わずにどうして進んで行けるだろう。」という文章に出会ったのです。その時、「ああ、そうか。そうなのだ。」と心の中より沸き上がってくる思いがふき上がって来て涙が止めどなく溢れて来ました。「人間は間違うものだ。間違ってもそれでも生かされ、支えられ、育まれている。何と有り難い事なんだ。」そんな思いでした。

 それは私達人間の弱さとか強さとか全てご存じの方がいて私達をずっと見守り続けていらっしゃってそのような方がその暖かい眼差しで、そのはるけき澄んだ眼差しで私達を見ていらっしゃる。そのような感じでした。不思議なことにその時を境にして、もう気持ちがすっきりして元気になっていきました。その後病院の中では自分は分かっている。自分の言うとおりにしろという思いをとどめる努力をしていきました。

 一人ひとりのスタッフの意見を聞くように努め、スタッフを大切にして、職場の環境を整える努力を致しました。すると不思議に急速に事態が改善していったのです。その後もいろんな問題は日々起こります。しかし現在では職員が一丸となって問題に対処してくれるようになってきました。そのような環境が整い、支えてくれているスタッフのお陰様で私は発達障害児の方々に全力でかかわることが可能になってきました。

 今は一人ひとりの子供達の問題を本気で何とか解決して差し上げたいと強く思って行動を起こしています。これが私のいつも思っている実践の、何て言うんですかね、一番の根本の考え方というところです。それは障害をトータルにみる。私達医者っていうのはどうしても病気を見てしまいます。しかし私達は人間そのものを見なければいけません。病気の部分を見るんじゃなく人間を見る。

 また、障害の部分を見るんじゃなく、その子の人間を見ていくという、トータルを見る。それから病は呼びかけという視点で子供達は親を映す鏡ということですね。子供の問題は親の問題であるし、特に小さなお子さん達はもう切り離せない。紙の表と裏のようなものであるという、その思いですね。

 それから自然治癒力を引き出すということでやはり私達が信じて関われば必ず子供達は伸びてくるという、絶対的に伸びてくるんだと私が信じて関わっていくという、この信念、この信念だけで、一回につき私は大体診察室、診察の時間というのは二十分というのが私の診察時間ですけれども、すべてのエネルギーを込めて子供たちと関わるようにしています。

 これは私の外来の診察室の風景です。五~六畳くらいの小さな部屋でですね、小さな机とじゅうたんがひいてあって、セラピーマットといって二?三畳くらいのマットがひいてあってですね、このようなおもちゃがあります。そこで子供にこういうふうに友達のようにして毎日格闘をしてるっていうのが私の日常生活です。

 最近経験致しました患者さんの事例の事を紹介致します。自閉症のS君です。自閉症っていうのは名前を聞いたことがあるかもわかりませんが、これは、人や世界と関わることが出来ない三歳以前に発症する子供の病気です。S君は一歳十一カ月の時に言葉が遅いっていうところで私のもとに来られました。

 お母さん自身もこのことをどのように接してよいのか分からず、硬い表情をしておられました。精神の発達の遅れと自閉症という診断をしましたが、私は最初に出会った時よりS君の中に大きな可能性を感じ、何とかそれを引き出してあげたいと思いました。言葉の訓練とか手足を使った訓練を始めると同時にお母さんとS君は繋がっている。

 S君の可能性を信じて真剣にお母さんが関われば必ず伸びて来るとお母さんに呼びかけ続けました。愛情を込めて声をかけて下さい。抱きしめてあげて下さいとお母さんに訴え続けました。約二年が経過した時のことでした。そのご主人や義理のお母さんの関係をお聞きしていた時でした。突然お母さんが私に「先生、私分かりました。」と涙ながらに話を始められました。

 S君がお腹にいる時にご主人のそのお母さん、義理のお母さんが嫌いで特に出産の前に1ヶ月間前後に自宅に滞在されたそうです。もうその時嫌で嫌でたまらなくて、その事が縁でご主人も嫌になってしまった。そして生まれてきたS君もご主人とよく似ていたためにかわいいと感じられなくて、しっかりと愛情を込めて抱きしめてやることが出来なかった。「この子が抱けなかったんです。申し訳ないことをした。これからは心を込めて育てていきたい。」と涙ながらに語られました。

 このお母さんの「この子が抱けなかったんです。」というその言葉というのはお母さんの中に痛みとしてずっと封印されていた思いではなかったかなあということを思いました。そしてこのことにお母さんが気づかれた後はお母さん自身が別人のように明るくなって、強くなっていかれました。

 ご主人にもそれまでは遠慮する関わりだったんだけどもうどんどん臆することなく意見を言えるようになったと言われていました。驚くことにその時期を境としてS君はどんどん伸びていき、昨年の四月には普通小学校に通い始めました。これがそのS君の経過です。少し説明致します。この発達指数とか知能指数というのはこの100というのが正常値です。S君が私のもとに来られた時は20とか30という発達でした。

 しかしその後少しずつ発達していたんですけれどもこの方が、お母さんが気づかれた時にその発達曲線が右上がりにぐんと跳ね上がって結局五歳過ぎにはもう120から140までもう全く正常以上の発達を致しました。通常このようなお子さん達はいくら発達してもやっぱり80、90まで発達すればもうそれでああよく発達したって言われるのが通常ですけれどもこのような発達を示しました。

 この事例から私はたとえどんなに障害が重くても心より信じて全力で関わっていけば必ず伸びてくる。それから親とか先生とか医者の関わり方で子供たちがどこまで発達するかが決まってくるというそのような確信を頂きました。最近はこのような出会いを毎日のように頂けるようになりました。二十世紀の医療の知識や技術、これは勿論必要なものです。それを否定するものでは決してありません。

 しかしその技術だけでは決して開かれないものがあるということを思っています。二十世紀の文明というのはその延長線上に二十一世紀の文明があるのではない。二十一世紀の文明というのは全く次元の異なったおそらく質的に飛躍的に、質的に飛躍した文明とか世界というのが二十一世紀の本当の文明ではないかと思います。

 おそらくその鍵っていうのは病気の人たちの痛みをなんとしても癒したいと差上げたいというその愛なんですね、愛と。必ず道はあるという不屈の闘志、それではないかと感じております。この二つの要素すなわち医療技術と愛の心が融合されて二十一世紀の医療の本流というものが作られていくのではないかというふうに確信しております。

 最後に最初にお話ししました三つの問いかけということに戻ります。私は今このような思いで医療実践を行っております。WHY なぜ私はこの現場にいるのか。それは苦しんでいる人たちを癒したい。守りたい。この思いがふつふつと湧いてまいります。今こうして皆様に話している時でも今私の心の中からこの気持ちが湧き上がってきております。WHAT 私は何を呼びかけられているのか。

 発達障害のお子さん達を私達は何を、私達に何を伝えようとしているのか、それはこの世は人道、悩みや苦しみがいっぱいある場所であり、しかしその中で生かされている、その切なさとか、そのかけがえのなさとか、その命の尊さではないかということを感じております。そしてそのWHYとWHATを受けてHOW私達はどのように生きたらいいのか、それは一人の人間としてその人道に立ち向かって何とかしたいと真心を尽して生きることではないかと思っております。

 この三つの問いかけは常に常に深め続けるものであると感じております。したがってこの思いは私の現時点での途上の思いであるというふうに感じております。これからもこの思いを深め続けて生きていきたいと願っております。皆様もぜひこの三つの問いかけを問いかけ続けて戴けたらと思っております。最後のスライドです。

 私達は時が経てば誰一人例外となく何らかの障害を持って死んでいきます。ならば共に死に逝く者としてのその平等をもって一人の人間として毎日を誠実に精一杯生きていきたいといつも願っております。本日皆様に会えて本当によかったと嬉しく思っております。いろんな事を全力でお伝えさせて戴きました。

 今日お伝えさせて戴いたことは今の私の本心でございます。何も嘘も偽りもございません。皆様はこれからの世界を担っていく若き志士たちです。貴方達の大先輩である幕末の志士、私も大好きですが、坂本龍馬のように志を高く持ってぜひとも人々のためにその持っている力を十二分に発揮されることを期待しております。ご清聴ありがとうございました。
 

(司会)
 許斐さんありがとうございました。皆さんいかがだったでしょうか。私は本当に今までの二十世紀が歩んできた医学に本当に欠けているものを今本当に補うように実践されているということを強く感じました。お母さんと子供さんのつながり、お母さんが本当に障害の子供さんにすまなかったということを思うと子供さんがどんどんよくなっていかれたというのは今までの医学の常識からすると本当に私達も驚く、同じ医学をやっているものでもすごく驚くような事例があります。

 ですから本当にこのような医療がですね、二十一世紀にどんどん出てくればどんなに世界はよくなるだろうと、そんなふうに思わせて戴きました。また後程あとでいろいろお話を伺いたいと思います。

 では続きまして、國弘正雄さんをご紹介申し上げます。國弘さんは、1930年、東京都にお生まれになり、ハワイ大学大学院文化人類学を終了されました。1969年にはアポロ11号の月面着陸時の同時通訳を勤められるなど、同時通訳の先駆者として知られています。

 また三木武夫内閣時の外務省参与でもいらっしゃいます。NHK教育テレビの講師を経て、上智大学、お茶の水女子大学の講師、日本テレビ解説員ニュースキャスターなど、多彩に活躍されました。1989年から1995年までは参議院議員としても御活躍されました。

 現在は宇都宮軍縮研究室の月刊誌「軍縮問題資料」の編集人でいらっしゃいます。著書には「英会話・絶対・音読」「國弘流英語の話し方」「ライシャワーの日本史」など多数ございます。本日はお忙しい中を私どものシンポジウムのために駆けつけて下さいました。現代の様々な問題をお聞かせいただけると思います。それでは國弘さんよろしくお願い致します。
 

(國弘正雄の講演)
 ご紹介を賜った國弘正雄です。実は私、高知に伺うのは今回で十回目ぐらいだろうと思います。というのはここから程近い阿波池田という徳島県の小さな人口三万ほどの町で過去二八年間にわたって夏のセミナーを手がけてまいりました。

 これは英語の勉強ということもありますし、国際問題について話し合うというような意味合いもあって過去二八年間続いてきたわけでありますけれども、それに私は全部一回残らず参加をしてまいりました。その時にですね、高知空港を使わして戴くというようなことが間々ございまして従って高知には多少の御縁があるというわけです。

 ただこの学校に伺ったのは今回が初めてでありまして、実はわずか五人の塾生とそれからお二人の今の理事長さんを含めてお二人の教育担当者でですね、呱々の声を上げられたこの学園が今ではこんなに見事なものになっているという時間の経過というものは本当にすごいことをやるもんだなと、そして志があればみなの力を集めてですね、これだけのことが出来るんだなということに大変に深い感銘を受けております。

 私も実は子供の時にはお医者さんになろうと思っておりました。ただ、血を見るのが怖いものですから、したがって臨床医にはなるまいと、なれないだろうと、恐らく自分は細菌学者かですね、何かそういう基礎医学の分野で仕事をしたいと思っていました。私の子供の時のヒーローは野口英世という有名な医学者でありました。

 私は子供の時に東京に住んでおったわけですけれども、小学校の三年か四年の時にですね、ぜひ野口博士の故郷を訪れたい、こう心に決しましてわざわざ会津若松というところまで出かけていきました。そして当時はまだご存命であった野口博士のお姉さまにお目にかかることが出来た。おいぬさんとおっしゃったと思いますが、もういいおばあちゃまでした。

 東北弁で何を喋っているのかよく分からなくて大変に苦労いたしましたけれども、自分はこれこれ、これこれであると、そして東京からやって来たと、野口博士を尊敬すること大変なものなんだとと言って自己紹介致しましたら、野口博士が囲炉裏に落ちてですね、片手を駄目にされてしまったその囲炉裏にですねご案内を戴いてここで実は清作が、清作というのは野口博士の若い時の名前ですけれども、清作が囲炉裏に落ちて障害を抱えるに至ったんだということになりました。

 ご説明を戴きました。そして大正天皇から恩賜賞ということで野口博士が貰われたお金でですね、買った田んぼで作ったお米をですね、ごちそうになりました。ただあの頃の東北というのはおかずなんていうのはほとんどたいしたものは無くてですね、本当に今思い出しても舌が痺れるくらい辛いですね、塩引きの鮭ですけれども、これがおかずに出てまいりました。しかし私はとにかく野口博士ゆかりのですね、そういうご飯をごちそうになるんだということで大変感動をしたことがございます。

 今回ここに伺ってですね、非常にひとつ大きな感銘を受けましたのは、学規にですね、深くこの生を愛すべしという言葉が書かれています。私はさっきそれを拝見して大変大きな感銘を受けました。深くこの生を愛すべしという言い方。この場合にですね、おそらくこの生というのはただ単に私個人の人間としての命だけを問題にしておられるのではないと。

 生きとし生ける者、仏教で申しますと有情無情などという言葉をつかいますけれども、生きとし生ける者、それは動物だけでなく植物もそして環境というような意味におけるですね、あるいは自然というような意味における無情、情けを持たないものをもですね、含めた生命への畏敬といいますか、命を大事にするということを謳っておられるんだろうと思います。

 こういうことをですね、校規のですね、始めに掲げておられるこの学園はですね、本当に深い意味を持った教育をしておいでになるんだなあということをつくづくと感じさせられました。大変な感銘を受けました。私もお医者さんになろうと思って、しかし数学が出来ないために果たして数学というものが先生本当にお医者さんにとって欠くことの出来ないものであるかどうか分からないんですけれども、数学が出来ないとですね、これは理系には駄目だということで結局残念ながらお医者さんになりそびれました。

 そしてその結果文化人類学などというものをですね、手がけることになり、やがてですね、国際関係とか外交問題というようなものに手を染めることになったわけであります。その分野でつまり生物あるいは医学の分野でですね、私の大変尊敬しておりましたもう亡くなりましたけれどもセントジェルジというハンガリー生まれの生化学者がおいでになった。

 この方はビタミンCの発見とかあるいは筋肉の機構のですね、解明というようなことでノーベル医学賞を1930何年かに受賞された世界的な今世紀というか二十世紀最大の生化学者バイオケミストと呼ばれた方であります。そのセントジェルジ先生の「狂った猿」という本を私訳して出したんですけれども、その中でジェルジ先生がですね、「生物の法則は若者の味方である。」ということを言っておいでになる。

 生物の法則は若者の味方である。原文語はですね、Biology is always on the young. いう英語でありました。つまり生物学の法則というものに従うならばですね、それは絶えず若い人達ちょうど皆さん達のですね側にあるんだと、その味方なんだとそれが若者に対するセントジェルジ先生の大変な愛情を物語っている言葉であったと思って、私はその言葉をよく若い人に何かを書かされる時があると英文であるいは日本語でそれを書いて差し上げております。

 若い人で、私なんかも段々歳をとってまいりまして、もうすでに七十三歳でありますけれども、七十三という齢に達しますとですね、若い人々を見ていると大変に羨ましいんですね。羨ましいを通り越して妬ましいというところまでいっています。いや、妬ましさを通り越してほとんど敵意に近い、憎悪に近い思いすら若い人たちに感じることがよくあるわけですね。

 私も大学に関係をしておりますから若い人々に接触する機会も少なくはないんですけれども、しかしいつもその時に自らの心の狭さを恥じつつ、しかし若い人たちに対してどうぞこれから大きくなっていってほしいと。

 本当にいろんな意味で大きく育っていってほしいと。知的にもそうですし、もちろん健康を大事にしてほしいということもありますし、それから情緒の面においても精神の面においてもあるいは哲学、宗教というような面においてもどうぞ自らを太らせていってほしいということを非常に強く感じるものであります。

 そんなことで生物学あるいは生物の法則は若い者の味方なんだということをどうぞ若い方は信じてほしいと。そして若いということによって様々な問題がありますよ。

 それはね、全く私自身も七十三歳になってみてね、もう一度十六歳の昔に戻れたらいいなと思うことも一方においてあるんですけれども、他方においてですね、もうあのね、修羅妄執にですね、もう一回身を焼けるのは辛いと、もうとにかく良かったと、もうこれでやがてはですね、多数派の仲間入りをするといことになるんだと。多数派というのはどういうことかというと亡くなった人ですよね。

 生きてる人間よりも六十億たとえ地球人口があったとしても今までになくなった人の方がよっぽど多いわけですから、従って英語ではですね、亡き数に入るというような意味でこれは雅号といいますか、雅やかな言い方ですけれども join the majority という言い方があります。つまりmajority 多数派に加わると、つまり亡くなるということですね、命が絶えるということですね、さっきも先生がおっしゃったけれども、命がやがて皆いなくなるんだとだれもいなくなるんだとそして多数派にその時に始めて属するんだということになるわけです。

 私は今までの自分の人生を省みていつも少数派の立場ばっかりを取っていました。政治の世界にしばらくおりました時もですね、はっきり言って少数派でありました。たとえば野党でありました。そして知事の兄上の大蔵大臣をやってらっしゃる時、あるいは内閣を組織してですねご自身の橋本内閣を作っておられた時もですね、よく少数派として多数党の兄上と論戦を挑んだことがあります。

 さっきも知事にそう申し上げたら「いやあ、兄も大変論戦の好きな人ですから。」というような趣旨のことをおっしゃっておられましたがまさにそうでありまして、しょっちゅうと言ってもいいくらいですねえ、予算委員会とかあるいは小さな委員会で兄上と議論をいたしまして、あの方はほとんど慣用語のようにですね、「お言葉を返すようですが」といった反論をされるわけですね。

 何にもお言葉を返していらっしゃらない。つまり私の意見にほとんど賛同していて下さるんだけれどもほとんど慣用句のごとくにですね、「お言葉を返すようですが」とこうおっしゃる。

 私も今度それにお言葉を返しましてね、「全然ね、総理、お言葉なんか返しておられませんよ。」と「何のお言葉を返していらっしゃるんですか。」とこういうように申し上げたりしたこともありました。野党でしたから勿論与党とは一線を絶えず画してはいましたけれども、しかし懐かしい大蔵大臣であり、また総理大臣でいらしたわけです。

 そんなこんなでわたしはいつも野党サイドを通してまいりましたけれども、しかしまあとにかく今度こそは join the majority だと。あまり遠くない将来にmajority にはいるんだろうと、もう七十三歳になるとそう思うんですよ。そう思うとね、若い人々が羨ましいしね、妬ましいしね、憎たらしいしね、敵意を感ずる存在なんだとそのことはちょっと分かってやってほしいと。

 それはなぜかと言うとあなた方の方が時間という味方をしっかりと身につけておられるからなんですね。我々の方が弱者なんです。明らかに弱者なんです。あなた方の方が強者なんです。これはね、日本民俗学の大家で柳田国男先生っていう大変な方がおられたんだけど、柳田先生がよく言っておられたことですけれども、生前。

 自分の両親ですね、親、両親などもですね、歳を取ってくると弱者だよということを言っておられた。それは恐らくご本人の非常な強い思い入れがおありになったんだと思うんですけれどもね。やっぱりね、歳を取るということは弱者に入るということなんですよね。だから若い皆様方は強者なんです。問題はいろいろあるだろう。修羅妄執のゆえに悩まされることもおありになるに違いない。

 それから将来のことを考えて非常に不安にとらえられたりね、自分の将来はいったい何をやったらいいんだと、どういう方向を選んだらいいんだと。どういう進学をしたらいいんだってことで悩むことは次々におありになるだろうと思うけれども、しかしようく考えてみてください。あなた方は強者なんです。我々年寄りは弱者なんです。

 だから強者はやっぱり弱者をいたわってほしい。とこういうことをまあ敢えて要求をさせていただきます。もう時間がありませんので、もうそれ以上の事は申しませんが、ただ一つだけ、最近、今、今日当たりの新聞やテレビご覧になっていても思われると思いますけれども、今世界情勢がですね、アメリカとイラクとをめぐって大変なところにさしかかっております。

 私はアメリカ合衆国というとこに約十二年住みました。歴代の大統領もケネディさん以来全部親疎の度合いは違いましたけれどもお付き合いがあります。その中では大変尊敬する大統領もいましたし、あんまり尊敬できないなという人もいました。はっきり言って今のブッシュという人に対しては何の敬意も払っていません。何の尊敬の念もありません。

 あんなそう言っちゃあ悪いけれども、困った人がね、合衆国大統領でいてくれるのはね、合衆国大統領というのはね、ご存じのように全世界の、我々の全人類の運命を自らの手のひらに握っている人ですからね。そんな人がね、そういう立場にある人がね、あれほどね、はっきり言います。これはアメリカ人が言っていることです。

 馬鹿で阿呆でとんまな白人です。そういう人の手によってね、世界がね、運命が握られているっていうことはね、大変におっかない関東弁でごめんなさい。東京弁でいうとおっかないことなんですよね。そういうことを考えると、イラクにいろんな問題があることは事実だけれども、しかし何と言ったってアメリカがですね、全世界を動かしているわけですね、そういうことを考えると実に恐ろしいという気が致します。

 そして今私はイギリスの大学に関係を持っているわけですけれども、イギリスのブレアという人がですね、これまたどうしようもない。そしてよく漫画にも出てまいりますけどもね、ブッシュのね、アメリカ合衆国ブッシュ大統領のプードル犬であると。プードル犬なんですよね。

 とまあ、ブッシュという人がね、今度アメリカの漫画にもよく出てきますけどね、これはエネルギー、石油を中心とするエネルギー資本のポチである。つまりエネルギー資本がこんな大きなですね、エネルギー資本を代表するような絵が、漫画があって、そこにその、首輪をつけられた小ちゃなポチがですね、いる。そのポチは誰の顔かというとブッシュの顔なんですね。

 そうするとね、これはひどいことになって来てると。そのプードル犬とポチとがですね、一緒になって世界をですね、牛耳っているんだということを思うと私はイギリスの大学に関係をしていることもちょっと恥ずかしくてしかたがないと。えらい時代が来ちゃったなあと思います。若い人大変です。だからそんな意味では。大変だけれどもあなた方は強者だということは忘れないで下さい。ありがとうございました。
 

(司会)
 どうもありがとうございました。生物の法則は若者の味方であるというお話でしたけど、それも國弘さんの味方でもあるようなそんな元気なお話で若者は強者であり、國弘さんもなかなか強者であるというふうなことも感じましたけれども、後ほどイラク・アメリカのことですね、いろいろ私も聞きたいこともあります。また後ほどよろしくお願い致します。

 続きまして橋本大二郎さんをご紹介致します。橋本さんは1947年、東京都にお生まれになりました。慶應義塾大学経済学部、法学部をご卒業。その後、NHKに入局され、1981年、東京社会部で報道記者となられました。1988年からはNHKニュースTODAYのキャスターとして皇室の報道を担当し、人気を博されました。

 1991年NHKを退局され、高知県知事に出馬され、現在に至っておられます。その後のご活躍は皆さんよくご存じの通りでございます。著書には「破天荒、大二郎がゆく」「土佐発、情報維新」などがございます。本日も大変お忙しい中を私どものためにおいでいただきました。知事になられてから様々な改革をはじめておられますが、本日はその一端でもお話いただければと思います。それではよろしくお願いいたします。
 

(橋本大二郎の話)
 皆さん、今日は。今日はお招きを戴きまして誠にありがとうございます。許斐さん、また國弘さんからはご自身の体験をふまえたお話、素晴らしいお話がありました。僕自身も自分の人生を変えたというか、いろんな転機になった出来事もいくつかありますし、また、考え方や仕事の仕方を変えたきっかけになったこともあります。

 が、まだ國弘さんほど若い皆さん方を敵対視したり、また恨みに思ったりする年齢にはなっておりませんので、自分自身の経験談はまたちょっと後ほどお話をするとして、最初に戴いた時間の中では知事として関わっている仕事の中から二十一世紀、まあ二十世紀と違う二十一世紀をどう考えるかっということをちょっとだけふれてみたいと思います。

 その時キーワードになるのは資源循環型の社会ということ、また治療の時代から予防の時代への転換ということ、そして森林環境税という三つのキーワードを中に入れながらお話をしてみたいと思います。

 二十世紀ですけれども、二十世紀の前半は今のアメリカ・イラクではないですけれども、世界中で戦争が、また大きな世界大戦が数多く行われたそういう世紀でした。その背景、原因にも経済の問題が色濃くあったんですけれどもその後半の五十年間、二十世紀の後半は経済がむしろ表舞台に立って世界全体、日本は特にそうですけれども、高度経済成長ということを目指してみんなが邁進をしてきた世紀でした。

 経済を伸ばしていくためには物をいっぱい作ってそれを一杯みんなに買って貰って経済全体を活性化をさしていく、活発にしていくっということが必要です。そのために大量生産の技術が出来、またそのいっぱい出来た物を売っていくいろんな仕組み、大量消費の仕組みが出来ました。これによって物は大変豊かになりました。ですけれども大量に出来た物をどんどん消費していきます。

 そのために本当に必要かどうかってことは分からないけれどもとにかく買っちゃう。そして使っているうちにすぐ捨てちゃう。というようなこと。また中にはもう使い捨てと最初から銘打っているような一回限りまた何回使ったら捨てちゃうことを前提にしたような商品もいっぱい出てきました。その結果身の回りではゴミの問題を始め数多くの環境の問題が出てきましたし、地球全体でも地球環境という大きな問題が出てきました。

 ですから今はそういうゴミが出てこないようなまた環境に負荷影響を与えないような物作りということが大変必要になってきていますし、もしゴミが出たときもそれをうまくまた使って次の再生品を作っていく、そういう資源循環型の社会作りが求められるようになりました。高知県でもこれからさらに資源循環の社会作りということに力を入れていきたいというのが先ず一点です。

 で、このことを別の視点から見た言葉が治療の時代から予防の時代という言葉ではないかと思います。今例に挙げた環境という分野で過去の歴史を振り返ってみるとその高度経済成長、経済をどんどん、どんどん伸ばしていくという中で公害問題という問題が昭和三十年代、四十年代、五十年代、各地域で頻発をしました。

 この公害問題というのは企業がもくもくと煙突から煙りを上げる。その煙から出てくる悪い物を吸って喘息などになる患者さんがいっぱい出た大阪の西淀川だとか三重の四日市だとか、各地域でありました。また企業が物を作ったあと廃液を、水を外に流します。その中に水銀が入っていたりカドミウムが入っていたりして水俣病とかイタイイタイ病とか、そういう様々な公害問題が出ました。

 これに対してもちろん被害を受けた患者さんが、住民の皆さんが裁判を起こしてそして損害賠償を取る。そうしてそれによって悪くなった体を治療するという文字通りの治療もありました。また公害に対して出てくる煙、それを何とかもう少しいいものにしようというので、フィルターを付ける。また排水にフィルターを付けるというような最初は治療の手段がずっと取られてきました。

 治療でも少しは改善をされましたが、だんだん、だんだん治療しただけではどうしようもない時代になってきました。今世界中を見れば熱帯雨林がどんどん伐採をされて環境そのものが壊れてしまっている。また私達が冷房やなんかを使えばフロンガスが出る。

 また石油や石炭をたいて電気を起こせばそれで炭酸ガスがいっぱい出ていって地球の温暖化が進んでいくというように治療だけではなかなか地球の環境が元に戻らないという時代になってきました。ですから治療よりもまず予防をしなければいけないそういうことが起きないような仕組みを作っていかなきゃいけないということで治療の時代から予防の時代っていうことが求められるようになってきてるのではないかと思います。 

 たとえば僕も東京生まれの東京育ちです。そしてNHKに入ってから仕事をした所も福岡と大阪ですので大都市ばかりにいました。高知に来て始めて山村中山間の地域をつぶさに知りました。そういう中で自分自身が最初に感じたのは自己変革と言うほど大げさな事ではないですけれども自分自身が感じて変わったなと思ったのは森林の大切さに対する感覚です。

 その時以来僕は森林を守ろうということを治療の時代から予防の時代への転換というようなキャッチフレーズで全国でお話をしてきました。その意味はどういう意味かといいますと、今森林の力がどんどん衰えてきています。従来ならば山に降った雨を山に蓄えてそしてじわじわと川に流していく。それによって洪水を防ぐとかまた、下流の大都市に飲み水を提供していくという役割を山が、森林が果たしていました。

 しかしその森林の機能がどんどん衰えてきたために降った雨が山に溜まらずにいっぺんに川に流れ込んでしまう。そのために下流の都市部で従来考えられなかったような大きな洪水なんかの災害が起きる。また水の足りない時期にはこれまでなかったような渇水が、大干ばつが起きる。

 これを後から治療しようとすると岐阜県の長良川で問題になったようなお隣の徳島の吉野川で問題になったような河口に大きなコンクリートの堰、水門を造ってそれで水害を調節しよう。または山の中に大きなダムを造って水を溜めるしかないという様々な公共事業を伴う治療をしなければいけないことになります。

 が、このことには環境という面でいろんな批判が出て来ました。こうした治療の発想に代わってそもそも果たしてきた森林の役割というものをもう一度見直すこと、もう一度甦らすことによって予防していくということを今考えるべき時代に来ているのではないかと思っています。その一つのテーマとして考えたのが森林環境税というものでした。

 この森林環境税は実は今から三年前、二〇〇〇年の四月ですから、二十一世紀の直前の時ですけれども地方分権が進むそのための地方分権一括法といって様々な法律の改正がありました。その中で地方でも様々な税金を作りやすくなりました。

 けれども地方分権が進んで地方の税金が作りやすくなったからといってこれにも税金かける、あれにも税金かけるといったら皆さん方のお父さん、お母さんにとっては地方分権っていうのはいったい誰のためにものだろうということになります。

 そこでただ単に財源が少なくなった、財政が厳しくなったからお金を頂くという税金ではなくて広く薄くみんなに負担をしてもらう、そのことでこれまであんまり関心を持たなかった、またこれまで気付かなかったことに気付いてもらう、関心を持ってもらうきっかけになるような税金というのが作れないかなと思いました。

 そこで目を付けたというと言葉がいけませんけれども、そこで関心を持ったのがこの森林のことです。というのは高知県は県の面積の84%が森林と全国で一番森林の比率の高い森林県です。けれども外国から安い木材がどんどん入って来て日本の国内、高知だけではありませんけれども、森林の手入れをしてもなかなかお金が取れないということになりました。

 そのため森林は手が行き届かないままどんどん、どんどん荒廃をしてきてる。荒れてきてしまっています。そのために先程言いましたように山に降った雨の水を蓄えていくというような力、また炭酸ガスを吸って酸素を出していくという地球の温暖化の元になるCO2を減らしていくような公益的な機能というもの、役割というものがどんどん衰えて来ています。

 これを県が持っているこれまでのお金、財源で何か仕事しようとしてもなかなか広く県民の皆さんの目には見えません。そこで大変恐縮なんだけれども一つのご家庭あたり年間五百円ほど新しい税金を負担して戴く。それによってこの森林のことをみんなで考えるきっかけを作ろうというのが今進めている森林環境税で現在開かれている県議会にお諮りをして認められれば四月から、来月から新しい税として始めたいと思っています。

 今、世の中七月二十日の海の日だとか九月の空の日だとか言う日がありますので、これに加えて高知県では高知の山の日というものをぜひ制定をしてその一日だけではなくて山の日の週間、山の日の月間、町に住んでいる皆さん方も一度山に行って「山がこんなに荒れているのか。」、又は逆に「ああ、山っていうのはとても環境がいいな。空気を吸うだけで気持ちがいいな。」というようなことを味わってもらう。

 また出来れば、気持ちが有れば間伐などのボランティアを体験してもらう。そういう活動を森林環境税というものを元手にやっていきたい。つまり山と町を繋いでいく。密接に関係のある森林と川と海とを繋いでいく。そういう仕組みをぜひ作っていきたいなあと思います。

 これは高知から最初に始めますけれども徳島も香川も愛媛もみんな知事さん達も賛成をしてくれているのでやがて四国全体で森林環境を考えるような税を作って新しい取り組みをする、そのことが全国に向けて山の大切さ森林の大切さということを働きかけていくきっかけになるんではないかなあと。

 ぜひそういう仕事をしてみたいと思っていますし、こういうことも高知県でできる二十世紀から二十一世紀への変革ではないかなあと。これもまたこの自己変革ということに少し引っかけて言えば自分自身東京に育ち福岡や大阪で東京で仕事をしていた時には全然気付かなかったことを高知で気付かしてもらった一つのテーマじゃないかと思いました。ということで最初のお話を終わらせて戴きます。ありがとうございました。
 

(司会)
 ありがとうございました。高知県は85%が森林であってその森林を大切にするということを県民全体が目覚めていきたいと、一家庭あたり五百円ずつ頂きたいということですが、皆さんこの税金制度あることご存じでしたか。もうすぐ始まるんですか。いつ頃から始まるんですか。
 

(橋本)
 議会が今月の十九日に終わるんですが、その時に議決をしてきっと認めて戴けると思いますので、四月からそういう新しい税金の制度が・・・
 

(司会)
 四月から各家庭五百円ずつで高知県の森林を大切にしようとそういう税金制度が始まるということなんですね。本当にこういう新しい発想、これも本当に橋本さんがこの高知へ来て始めてこの森林の多い県を何とかしたいという改革の意欲が生み出したものだと思います。

  これで一応三人の方々の講演を頂きました。少し予定時間をですねかなりオーバーしてるんです。それでこの後長く討論する予定だったんですけどちょっと短くなりますので皆さん少しご了承戴きたいというふうに思います。

 始めにですね、許斐さんが医師として重症の患者さんに関わっておられる姿を拝聴いたしましたけれども、その前にですね、許斐さんは自分はまともな人間だと思っていたけれどもたとえば職員にいろんなことを聞くと百九十項目もの自分に対する非難というのを頂いたというのですが、許斐さんこういうふうなこと正に聞こうとすること自体が変わりますじゃないかと私は思うんですけれども、その時はどうしてもそのようなことを本当に自分が変わりたいというふうに思ってらっしゃったわけですか。
 

(許斐)
 そうですね。実を言うと、もちろんそういうことをやりたくなかったんですけども、もう現実があまりに厳しくてですね、結局先程話しましたように、もう命も、いつもいつも介護をしなければ命すらも保てないような方達をいっぱい面倒見てますし、やはりその人達をどうしても守りたい自分がそこに行ったその施設に行って医者として働くということはその方達を守るために行ったのに現実的に守れないでいるということが自分の中の痛みとしてあって、それならば自分がどうなってもとにかく守りたい、そちらの方を大切にしたいというふうに思ったんで。
 

(司会)
 私はこの発表をお聴きしていまして自閉症の子供さんがですね、知能指数二十や三十から百を超えたいうぐらいになったということもですね、もし許斐さんがそのように自分を変えたい何とかしたいというあれがなければそのお母さんも自覚しなくてひいてはその自閉症の子供さんも良くならなかったというふうに思うわけですね。

 そうしますとこの医療者のですね、自分が変わるっていうことがものすごく患者さんに大きく響いているというふうに思います。私自身も日常の診療の中で患者さんに対してですね、関わり方によって正に同じ患者さんが全然結果が違ってしまうということもよくあるんですね。

 本当に医療者の自分の、医療者自身の気持ちが患者さんに伝わって患者さんの病気の結果が良くなったり、悪くなったりするという現実が正にあるわけです。皆さんは一般的に薬投与したり手術をしたりすれば結果はまあそんなに大きくどなたの医者がやっても同じじゃないかという風に思われるかも知れませんが、実はですね、本当に医療者の心、精神というのが患者さんにものすごく影響するというのが厳然たる事実というものがあると思います。

 正に許斐さんが今発表されましたのは正に医療者の変わるが患者さんを変えていくんだというそういうものを強く感じさせていただきましたけれども、本当にそうですねえ。
 

(許斐)
 全くその通りだと思います。だからわたしもそれを以前は全然そう言うことが分からなかったんですね。だからそれまで私も医療者に、こういうふうになるまではいわゆる科学者としてサイエンティストとしてやってましたので二十世紀の私達が学んだサイエンティストというのは誰がやってもどういう状況でやっても同じ結果が出るというのがサイエンスの一つのセオリーなんですね。

 それを徹底的にたたき込まれましたので、やる人で、関わる人で変わっていくなんていうことは全くの対極した考え方だったと思うんですけれども、今はやはりそれは違うなということを思っています。私達を組み入れて、私達をその中に入ってそれが変わっていくんだと。

 特に人と人の関わりの中においては特に子供さんあるいは皆さんとお父さん、お母さんと先生方の関わりの中にやはり誰が関わるかによってその子その子自身の伸び方が全然違うんだということ。まさにもうこれ教育の真髄のところに関わってくると思うんですけれども、そのとおりですね。
 

(司会)
 そうですね。ほんとに先生と生徒の関係もそうでしょうし、医者と患者の関係もそうですし、親と子の関係もそうだし、恐らくすべて絆がですね、結び直されると全て問題が解決していくんじゃないかとそのような感覚を頂きました。本当に素晴らしい講演ありがとうございました。

 國弘さんにはですね、最近イラクとアメリカの戦争勃発寸前であるということでアメリカのブッシュ大嫌いという今お話がございましたけれども、今本当に世界はイスラエルとアラブ諸国の関係もそうですけれども、力に対してはですね、力で応えていくというこの連鎖が起きてるという風に思うわけですね。

 それは本当に尽きることのない恨みをですね増幅させていくようなそのような事が起こっていると私は思います。本当に際限がない争いがこれからも続くのかと思うのですが、どのように考えていけばいいでしょうね。
 

(國弘)
 お答えが、今のお尋ねに対するお答えが出来ればですね、私がただ単に個人として幸せだというだけではなくて世界に本当に身のある貢献をすることが出来るだろうと思うんですね。ということは私には、私ごときにはそんな快刀乱麻をたつがごときですねお答えは出来ないということですね。ただ一つ今日なんかガンジーのですね、映画を後で若い方に観て戴くことになっているらしいんで、私は今そこでガンジーという人のことを思わざるを得ない。

 ガンジーというのは若い方あるいはご存じないかも知れませんけれども、インドのですね、聖者と言ってもいい、言われた人ですね。ガンジーは結局は暗殺されてしまうという大変不幸な事になるんですけれども、ガンジーの非暴力、あるいは無抵抗の思想っていうものをこれは私達は思い出さざるを得ないんです。そのガンジーの影響を受けたのがアメリカのマーティンルーサーキングというこれはキリスト教の牧師さんでした。

 この方も大変な影響をアメリカの特に黒人解放運動なんかに大きく与えるわけですね。ところがこの人もまたね、非暴力を信じていた人であった人がこれまた暗殺されてしまうというね、大変に不幸な連鎖のようなものがあるんでね、非暴力ということあるいは無抵抗ということがですね、ご本人の暗殺事件に結んでしまったのかなと思うとですね、ちょっといやな思いがするわけなんですね。

 ただガンジーの場合はご存じのようにインド人ですね。ヒンズー教徒です。熱心なヒンズー教徒でした。ヒンズーの思想というのはこれは仏教とも非常に大きく絡んでくるわけでヒンズー教の中から仏教が生まれてお釈迦さんが誕生したといういきさつがあるわけですね。

 それでそのお釈迦さんの八万四千の法文をとかれたという八万四千もの法をお釈迦さんの一つの大きな教えの一つに法華教というお経がありましてね、そのお経に恨みは、恨みをもって説くべからずという有名な句がございます。私は大変に好きな言葉でしてね、恨みを晴らそうという時にね、恨みに恨みをもって対抗するというか恨みをもって恨みに報いるということになりますとね、これはいつまでも今おっしゃったように悪い連鎖がですね、悪循環がどんどん、どんどんいつまで経っても続いていくということになりかねないと。

 だからどうして非暴力あるいは無抵抗の思想っていうようなものに僕たちが全体として関わっていくかということだろうと思うんです。それは言うは易いけれども実行は非常に難しい。これはキリスト教なんかでもですね、右の頬打たれたら左の頬を差し向けろという言い方がございまして、各高等宗教と呼ばれるようなものがおしなべてそういうような教えを説いているわけですが、それがまあしかし実行となると非常に難しいと。

 ただ一つ私はですね、これは日本国憲法をここで思わざるを得ないんです。日本国憲法を生まれた経緯はどうであったかというようないろんな言い方がありますし説明がありますけれども、私は日本国憲法の九条に象徴される非暴力あるいは非武装のですね、思想というものが本当に世界に先駆けた、しかも我々が激しい侵略とそして戦争のですね、結果みつけた偉大な思想であるというふうに思うんですね。

 その憲法九条というものがないがしろにされつつあるということを私は大変に残念に思い、何とかして憲法を守っていくという立場に立ちたいと思って自分でも努力をしてきたわけですけれどもまあしかしそれもさっき申し上げたように言うことは易しいかもしれんけれども、自分の身に触れて考えてみるとね、果たしてね、無抵抗、あるいは非暴力という願いをですね、どこまで達成していくことが出来るかっていうことについてはあんまり自信がないというのが正直なところです。
 

(司会)
 今ガンジーということが出ましたけど、ガンジーのことご存じな方手を上げてみて下さい。あまりご存じないですか。インドのガンジーですね。結構です。ありがとうございました。そんなに多くなさそうなんですけれども。

 ご存じない方にですね、ガンジーはインド独立、イギリスの植民地だったですね、それが独立するための、独立の父として非暴力という方法で戦後イギリスの植民地支配からインドを独立させたわけなんですけれども、そこで國弘さんがおっしゃいましたように少し十二分ほどの映画がありますのでその画面をちょっと見て戴ければというふうに思います。それでは映画の方よろしくお願い致します。
 

【映画(ガンジー)】
 

(司会)
 いかがだったでしょうか。私たちは武力には武力で立ち向かうということが当然であるという前提に立っています。しかしガンジーは、ある意味でそれはほんとに当然のことだと思います。しかしよく調べてみますと、常識ではほとんど考えられない方法でこの扮そうを解決に導いていった、こういうことがあることが分かってきます。

 報復攻撃が本当に当然となってしまった現代においてその方法をみてみるというのも本当に意味があることじゃないかと思います。皆さんどうでしょうか。打たれても打たれても頭を下げずに、非暴力によって前進していく。徹底した非暴力でイギリスに立ち向かい、ついにはインドを独立に導きました。これは歴史的な事実であります。ガンジーは最後には暗殺されましたが、世界中で何百万人という人がその死を惜しみました。

 今正に始まろうとする戦争がありますが、暴力戦力でしか問題を本当に解決するのでしょうか。ガンジーのこの非暴力は本当に非常に知恵のある方法じゃなかったかと思います。ここで象徴されることは、一人の変革が国民全体を動かし、インドの全国民が非暴力という方法に従ったという本当に驚嘆すべき事実があります。

 ただひとりの変革が国を動かしていったという事実であります。本当に現代で一番必要なのはこのようなことではないかと思いますが、皆さんどうでしょうか。いかがでしょうか。橋本さんいかがでしょうかね。
 

(橋本)
 僕が大学生の頃、よく読んだ思想家にバルターベアミンという人がいます。オーストラリア生まれのユダヤ人ですけれども、ナチに追われてスペインに逃げる途中にピレネーの山中で逃げ切れないと思って薬を飲んで服毒自殺をしたという思想家です。高校生の方もおられますが、高校生にもまだまだ難しいのでもう少し大人になってからもし関心があったら読まれたらいいと思いますが、このバルターベアミンという人の書いた著作の中に暴力批判論という本があります。

 全ての暴力というものはその中に腐敗を生むというか、悪を孕んでいるということを極めて理論的に明快に言っている本で私が最も尊敬する思想家のうちの一人です。是非関心があればご覧になって戴きたいと思います。

 暴力というものを考える時にこういうふうに理論的につめていっても暴力というのは大きな問題を孕んでいると思います。けれどもそういう理論だけではなくてどこに今の社会現象でいえば問題があるかということを考えると、やはり目の先の事にとらわれて全体が見れなくなっている人、そういうところから暴力というものは出てくるのではないかということを思います。

 それは個人テロをやっているひともそうだし、またアメリカが今イラクに起こそうとしている国家テロと言ってもいいような現象も僕はそうだと思います。よく木を見て森を見ないということを言いますけれども、全体を見ればやはり今のたとえばアメリカのイラクへの攻撃には様々な問題を孕んでいます。

 それは良識のある方ならみんな分かることだと思いますし、今も世界中の世論がどの国でもほとんど大多数がこの戦争には反対をしてるということからも当然感じ取れることではないかと思います。ではどうしてアメリカだけ国民の多くの方々がこの戦争に賛成をしているのか。

 そこにはやはり一昨年の九月十一日の貿易センタービルのあの事件、テロ事件という悲劇があったんではないかと思います。まあ私はアメリカ人ではないし、アメリカにそんな多くの友人がいるわけではないですから決めつけて言うことはできません。しかしあのことは多くのアメリカの方々にとってイスラムの文化やそこにまつわる方々への疑心暗鬼を生み、または不信感だとか憎悪を生んだんではないか。

 それがトラウマとなって全体が見れなくなっているのではないかという気がします。ぜひ皆さん方もこの暴力だとか戦争だとかいうことだけではありません。人生の中でいろんなことがあると思います。

 そういうときに自分の目で見たことだけではなく、自分の聞いた事だけではなく、広くもっと何か別の考え方があるんではないかなという様々な情報に耳を傾けて、全体像を見てみる。自分の見えないところまで含めて広くものを見てみるということをやっていけば暴力のこともそうだし、バランスを欠いた行動や考え方って言うのは出てこないんではないかなということを僕は思います。
 

(司会)
 ありがとうございました。目の前のことを見ずもっと全体を見てから判断すればいいということですね。私自身は今回のこのようなことは本当にさきほど橋本さんも言われましたように一昨年のテロがからんでいるのだろうと私も本当によく思います。

 ですからやっぱり怖いんです。恐ろしい。怖いという感じがあるんじゃないかと思います。ただ私は自分が正しいからですね、異なる印を持っている人に避難排斥憎み否定というのはなかなかそれが本当に肯定されるかというとどうしてもそこは疑問に思うわけですね。許斐さんなんかいかが思いますか。
 

(許斐)
 そうですね、私はやっぱり今の情勢を見てもやはりアメリカが戦争をしようとしているってところに対してやはり納得いかないという思いがやはり強くあります。一昨年の9.11の貿易センタービルのいわゆるテロリストの人達のアメリカを攻撃したのは恐らくそこまで追い込まれてしまったんじゃないかあと。

 恐らくイスラムの人達とアメリカの貧富の差があまりにも激しいために恐らく通常兵器というか通常に戦争したりとか対等にわたり合うってことが出来なくて恐らく最後に残された手段はもうああいう形でしかなかったんじゃないかなあと。そこに目を向けてその貧富の差、世界の貧富の差っていうところにほんとに私達が目を向かなければ形の上のテロだとか、戦争だと見てもなかなか見れないんじゃないかということですね。
 

(司会)
 そうですね。既に第一部の時間を過ぎているわけですけれども、この第一部ですね、先ず三人のシンポジストの方々からいろいろお話を伺いました。医療の世界では本当に驚くべき、私にとっては本当に驚くべき実践だと思うんです。患者さんに関わりですね。

 そして今現在テロを始めとして世界に吹く報復攻撃の悪循環ということに対して私達は今このガンジーの映画を観て本当にそれが正しいかどうかということを振り返ってみたわけです。そしてこの現状を何とか皆さんまだ若いということで、若い方に本当によく考えて戴きたいということでこの問題を第一部で提示させて戴きました。

 それぞれ皆さんの心に、良心に従って考え方をこれからも育んでいって戴ければというふうに思っております。これで一応第一部を終了させて戴きたいというふうに思います。シンポジストの皆さん、ありがとうございました。
 

【第二部】
 

 それでは只今から引き続きまして 第二部に入りたいと思います。ここからも引き続き山田先生の方から司会兼パネリストのような形でお願いいたします。又、生徒代表として田中君がこれからリーダー役も務めさせて戴きます。宜しくお願いします。 
 

(司会)
 はい。ここからですね、生徒会長の田中君に入って戴いて話を進めていきたいと思います。第一部では社会で活躍されている方々が世界に生じている問題や困難に焦点をあてて、どのように道を切り開いているかという事を紹介して戴きました。そして討議を通じて、二〇世紀の考え方に対する真っ向からの挑戦で、それこそが自己改革の道に繋がっていく道であるというふうにおもいます。

 第二部では自己変革というテーマを自らに引き受けて質疑応答を通して深めていきたいというふうに思っています。この第二部を進めるにあたって、先ずヘレンケラーの人生における象徴的な場面を映像で見てみたいと思います。

 ヘレンケラーの人生ほど私達に希望を与えてくれる存在は無いのではないでしょうか。どんなに絶望的と思われる障害の中でも人生を輝かせて生きることができる。更にヘレンの成長のためにサリバン先生は関わられた教育法など現代の私達に訴えてくるものが多々有ると思います。

  ヘレンケラーは、生まれた時は普通の子供だったわけですけども、ところが生後一年九ヶ月の時に大きな病気をして、そのまま見えず、聞こえず、語れない、という三重苦の状態に陥ってしまいました。もう普通の人生は歩めないと家族は諦めかけていました。ところがヘレンケラーはサリバン先生という人に出会います。

 このサリバン先生は諦めかけていた両親とは全く違う接し方をしました。そしてヘレンケラーの持つ可能性を徹底して信じぬきました。彼女のヒステリックな異常な行動を異常だと思わず、暗い闇と闘っているヘレンの心の叫びとして捉え、どこまでも寄り添い、そして自分も一緒に闘いました。

 そしてある日庭の井戸の所へヘレンを引きずってその手を流れている冷たい水に突っ込みます。大変有名な場面ですが、そのあたりを一度映像で拝見したいと思います。約一二分です。それではお願いいたします。
 

【映画(ヘレンケラー)】  

 はい、如何だったでしょうか。この場面は、ヘレンケラーの手に冷たい水がかかるわけですけれどもその時にこのWATERという指文字の感覚がほんとに水と結びついた瞬間で、ここよりヘレンは全ての物に名前があるということを知ってかけがえのない存在であることを知ったというふうなことを後で述べておられるそうです。

 この時点からヘレンケラーは別人格のように輝いて、そして多くの障害者の希望の光になっていかれたということです。私はこの物語はですねえ、ほんとにどんな障害を持っていても人間には無限の可能性があるという大きなヘレンケラーのこのお話を聞く度にそのように思いますし、もう一つは私はこのヘレンケラーに関わったアンサリバンという方のほんとに関わり方、

ヘレンケラーのもつ可能性をとことん信じて関わった可能性というものをすごく感じるわけですけども、先程のガンジーの映画と同じくですねえ、私達は人類にはまるで暗い中でも灯台である、希望の光を発するような人が存在するということにほんとに大きな勇気がわいてくる感じが致します。皆さん如何でしょうか。許斐さん如何でしょうか。
 

(許斐)
  そうですねえ、私も昔この映画を見させて戴いて、当時は医者でも何でも無かった。あらためて発達障害の方達と関わってて、今もう一回こうして見せて戴いて、あーやっぱり同じような事が自分の前でも起こってるんだなということをすごく感じましたねえ。先程お話もしましたけれど、私、現実的にいうとおそらくこういう方達、

正確な数はわかんないですけども何百人というおそらく五百人、六百人、それ以上かもわかんないですけども関わりあいを持たしていただいてるんですけども、どんなに障害が重くても、いわゆる物を感じる感性はあるんじゃないかなと。それからどんなに喋れなくても内的な言語というんですか、外に出す言語じゃ無く内的な中に色んな言語を持ってるんじゃないかなということを常にやっぱり感じてますね。
 

(司会)
  許斐さんはほんとに障害児の方々に毎日のように接しておられまして、このような方がほんとに可能性を開かれているということにすごく毎日何とか障害者に可能性が開かれないかということで心労されておられるわけで本当にこのような実際にこのような方が存在するということは本当に大きな希望の光がありますね。じゃあ以後生徒会長の田中君が来ていらっしゃいますので話を進めて戴きたいというふうに思います。ではよろしくお願い致します。
 

(田中)
 先程のヘレンケラーの映画を観てやっぱり深い愛情で育てられていくと最後にはやっぱり可能性がかなうんだなあというのがよく観てて分かったんで先生達も深い愛情で僕らを育ててもらいたいなという感じで思いましたけど。今映画を観て國弘さんはいかがでしたか。どう思われましたか。
 

(國弘)
 私は敗戦後三年ぐらいだったかな。大阪にね、ヘレンケラー女史がサリバン女史と一緒にみえたことがあるんです。大阪の確か毎日新聞の招きで日本に来られたときだったと思います。当時私は神戸の神戸一中という旧制の中学校の五年生だったか、四年生だったかの時でヘレンケラーさんがみえるっていうのでね、何としても大阪へ行ってご本人の姿を遠くからでも見ることが出来ればと思って出かけました。お会いしました。お会いする機会がありました。

 今だから映画を久しぶりに拝見して、本当に何とも言えない思いでいっぱいです。特にさっき歳のことを申し上げましたけど、私はね、この頃ね、目が段々見えなくなりつつあるわけよ、はっきり言って。いや、本当に。それからね、かすみ目になってきたんですよね。それからね、耳が明らかに聞こえにくくなってきている。ですから人様のお話を聞いているときでもこういうふうにして耳を傾けなくちゃならない場合があるわけですね。

 まあ、耳の遠いのは長寿の印だという事も昔から言われていますから、あるいは私は自分自身もあるいは人様も飽き飽きするぐらいね、長生きするのかも知れません。憎まれっ子世にはばかるというから、憎まれっ子でいる限りは世にはばかるのかも知れないけど、ただね、耳が聞こえにくくなってきた、目が見にくくなってきたというのはやっぱり辛いんだよね。

 それ考えるとね、三重苦というけどね、ヘレンケラーさんの場合は本当に三つも苦しみをね、しかもほとんど生まれつき持っておられたわけですからね。でもね、大変活発なね、闊達ていうかね、活発なね、おばあちゃんだったですよ、僕がお会いした時は。あの人はねアメリカの南部の出身なんです。

 南部人、これは「風と共に去りぬ」なんかに出てくる南部の婦人というのは一種の独特の趣があるんですけれどもね。ヘレンケラーおばあちゃまも南部の出身でね、いかにも南部のご婦人だなあと思われるようなところがあって、お会いできたことを大変嬉しく光栄に思いました。今久しぶりでお会いして嬉しかったです。ありがとう。
 

(田中)
 橋本さんの方はいかがでしたか。
 

(橋本)
 今の映画を観ていろんな見方が出来ると思います。障害者の問題としてあの場面を観ることも出来るし、教育の力という面からあの場面を観ることも出来ると思います。今日のテーマの自己変革ということで言いますと、僕はやっぱり全てのキーワード、何でもキーワードにしちゃあいけませんけど、気付きということじゃないかと思うんですね。

 今のシーンもですね、あのことによってヘレンケラー女史が水っていうものを実感として認識をしてそのいろんな世の中に様々なものがあってそれぞれにそれぞれの名前があるということを気付いた。それがヘレンケラーさんがいろんなものを目は見えないけれども見えていくきっかけになったという象徴的なシーンだと思います。

 最初に許斐さんがお話をされた時にも六人の看護師さんが辞められてその時になぜだろうといってみんなの話を聞いていったら一九〇項目のいろんな見方が出てきた。その時許斐さんもたぶん気付かれたんだと。そして自分は何でも分かっている、自分には出来るというのがそうではないということに気付かれたという事例をお話になったと思いますし、それからその後の事例でお話になった障害児をもたれたお母さんのお話も正に気付きだったと思います。

 やはりそのためにはやはり教育の力だとか、ご家庭の愛だとか様々なことが必要になりますけれども、いかに気付くチャンスをまわりの人という立場からすれば子供達に気付くチャンスを、子供だけじゃなくてもそうですけれども、気付くチャンスを与えていくかということが大切だし、またそれぞれ自分たちもその気付く機会を自分で作っていく。

 そのためにはさっきの全体像を見ていくっていうこともそうだし、いろんな話を聞く、いろんな人の話を本で読んでいくそういうことによって気付く場面をどれだけ作っていけるかということが今日のテーマなのかなということを今の映画から改めて感じました。
 

(田中)
 ありがとうございました。「奇跡の人」というヘレンケラーの映画を観てもらいましたけれども、次にパネリストの皆さんは僕らと同じ時代があったことだと思います。國弘さんも敵意を抱く若者の時代が昔はあったと思いますけれども、その若者時代はどんなのだったかなというのを一人ずつ聞きたいんですけれども、國弘さん大丈夫ですか。お願いします。
 

(國弘)
 私? もう一回言ってよ。
 

(田中)
 分かりました。若い頃に普通の小学生だった、中学生だった頃のお話をお願いします。
 

(國弘)
 さっきちょっと申し上げたようにお医者さんになりたかったわけ。なりそびれたわけ。だからお医者様に対しね、愛憎相半ばする思いがあるわけ。つまりね、お医者さんっていうのは自分がなりたかったものでしかしなれなかった、そのものになった人だと。お二人お医者さんがおられるわけですよね。

 だからね、羨ましいというかね、なんというのかなあ、妬ましいというかねえ、「ちぇっ」という感じかあるわけよ。俺がなれなかったものになりやがってというようなね、そういう思いがあるから、心の中では非常に尊敬はしてるんですよね、お医者様って言うのは大変な仕事だしね。

 何しろ命を扱う、人の命を扱う仕事ですからね。大変に尊敬もするし、あれなんだけども、しかしどっか僕は意地が悪いのか何か知りませんけど、ちょっとね、ちぇっていう思いがあるわけ。それはちょうど若者を見ていてね、ちぇっていう思いがあるのと同じなんですよね。

 そういうようなことで、ただ僕は一つは戦争を体験しています。それで僕は神戸にいたんですが、すぐ僕のそばにいたね、そうですね今で言えば高等学校かな、あるいは大学かなあ、くらいのお兄さんがね、そばにおられてね、十七歳くらいでしたよ。それで僕は勉強をみてもらっていたのよ。

 二つか三つ上でね。ところが神戸の大空襲で三月でしたけれども、大空襲でね、そのお兄さんのところに大腿部に焼夷弾が直撃したわけですよ。焼夷弾というのはこれくらいの大きさのものでね、空から山ほど降ってきたわけでしょ。それがね、直撃したわけよ。そしてね、今思い出しても、非常に辛いですけど、僕の腕の中でね、痙攣してね、激しく痙攣してね、息絶えられたことがあった。

 それがね、僕のね、戦争だけは許せないというね。僕は反戦という言葉はあまり使いたくないんです。非戦といっているんですけどもね、戦わないというね。反というとなんか対立的な感じがあるでしょ、反戦というとね。僕は反戦という言葉は一切使ったことないんだけれども、非戦の思いをね、そこで非常に強く持った。

 何でこんなめに合わなくちゃいけないんだろうというねことを非常に強く感じてね、それが僕のね、国際社会とかね、外国とかいうものに対してね、どうやって日本を開いていくか、あるいは要するにああいう悲劇が起きたのは日本に非常に大きな責任があったわけですけれども、同時に国際社会との、今の言葉で言えば国際社会とのね、風通しが悪かったからだと。

 国際社会との風通しを少しでもよくする上にね、自分がいったいこれから何が出来るだろうか、あるいは何をすべきだろうかとこう思った。そういう意味で、外交とかね、国際問題とかね、国際環境とかね、そういったものに向いてっちゃったんだなあと自分の一種の運命的なものを感じますね。

 だから今のご質問に対するあまりお答えにはなってないんだけれども、そういう僕にとっては戦争体験というもの、しかもそういう空襲を受けた、身のまわりで本当に命が、若い命が絶たれたというね、そのことが僕の運命を、何というかなあ、決めちゃったという気がしますね。すいません。
 

(田中)
 ありがとうございます。許斐さんはいかがでしょうか。
 

(許斐)
 そうですね、私は少し先程もお話しましたけれども、私の小さい頃っていうか、皆さんの頃はですね、私は福岡県の筑豊炭田ってご存じですかね。石炭を掘ってる筑豊って地方があるんですね。そこで生まれ育ったんですけども、ちょうど私は戦後生まれですので、ちょうど戦後の復興期には一番景気が良かった時代だったんですけれども、それが段々と石炭から石油にエネルギーが変わっていくその変動の時代だったんですね。

 だから、まあもともと戦後の復興期の時代ですのでそれほど社会が豊かではなかったので、貧しさとかですね、炭坑がある繁栄したものが滅んでいくっていうある種の寂しさとか貧しさとかそういうのをすごく感じましたね。恐らく皆さん想像できないかわかんないですけれども、たとえば弁当なんか持ってこれない人が何人もいました、やっぱりね。

 給食ももちろんない時代でしたので、昼ご飯が食べれないんですね。そういうふうな方が何人もいらっしゃいました。だからそういう、それから今のような教育制度も特殊クラスの子、いわゆる養護学校とかそういう制度がありませんので、同じ一つのクラスの中で、まあクラスも五十人クラスぐらいだった。

 五十人か六十人クラスだったんですけれども。その中にたとえば障害のある人達もみんないたわけですね。だからある種、だからそういう発達障害のある方も今から思ったらあの方は脳性麻痺だったんだとか、あああの方は自閉症みたいな感じだったなあと今分かるんですね。

 ただ当時は分からなくて、みんなでいじめてたりとかね、積極的には関わってないんですけれども、そういう時代だったなあというふうに思ってますね。それからどっちかというと優等生みたいなイメージでね、やっぱりみんなに心を開くことが出来なかった。

 自分の痛みとしてね。まあ、今はかなりある意味では自分をさらけ出してみんなにお話することが出来るようになったけども、なかなか恥ずかしがり屋なね、そういう感じだったですね。だから皆さんあまり心配いらないんじゃないかなあという気はします。
 

(田中)
 僕も恥ずかしがり屋なんで、何もしゃべれないんですけど。僕も小学校、僕の家は広島なんですけれども、小学校の方で中学受験をして高知の方に寮生活をしてそういう生活を今、五年目ですけれども、寮生活をしているんですけれども、やっぱり自分中心、自分のまわり中心でやっぱり今生きているっていうのがあるんですけど、

橋本知事さんとか、許斐さんとか國弘さんを見るとやっぱり自分のことよりもまず全体のことを、みんなのことをを考えて動いているというようなイメージがあるので、いつぐらいから、どういうきっかけでみんなのためにっていう考えたのかなというのをちょっと聞きたいんですけど。橋本さんの方はいつ頃からでしょうか。
 

(橋本)
 いつ頃からでしょうね。今やっぱり知事という肩書きを背負っているのでね、みんなに中学・高校の皆さんに少しは格好の良いこと言わなきゃいけないと思って、全体を見なきゃいけないなんて言っていますけれども、自分が中学・高校の頃にそんな自分の考え以外の全体像を見ようなんて思ってたわけではありません。

 僕も皆さん方と同じような中学・高校が続いた一貫校、東京ですから東京の私立の一貫校に行っていました。男子生徒ばかりの学校でしたのでガールフレンドが欲しいなあとずっと思い続けていましたけれども、今そういう性格だというとみんなに嘘だろうといわれるんですけど、僕はとてもシャイな内気な性格でですね、女性に話しかけたりも出来ないと。

 友達の中には全然クリスチャンでもキリスト教徒でも何でもないのに毎週日曜日に教会にいくとミッション系の女学校の子が来てて友達になれるというので教会に足繁く通うとかね、非常にこまめな友達もいましたけどなかなかそんなことも出来ないというので本当は軟派でいきたいと思ったけれども出来ないまま柔道部で中学から高校の始めまでやったというような自分を何となく押し隠しながら真面目な生徒であり続けたような気がします。

 ですから今のご質問で言えばそんなに自分のこと以外の外に目配りが出来るというふうになったのは当然社会に出てからだろうと思います。僕はご紹介の中にもありましたように二十歳過ぎて大学出てから初めて東京を離れてNHKの記者になって福岡に赴任をしました。

 その時最初は記者っていうのはみんな警察担当をしてですね、警察署を回るわけですけれども、警察っていうのは世の中のありとあらゆる出来事が全部弱って事件をおこしたとか困ったあげくに事故にになったとかそういうことが全部集まってくるとこですので、本当にそれまで見たことのなかった社会を様々見ることが出来ました。

 それが自分自身が自己変革なんていう意識をしたわけじゃないですけど、自然自然にさっきで言えば自分の狭さというものに気付いて、もっといろんなことを目をひろげていかなきゃいけないなと思い始めたきっかけだと思います。別に記者という仕事でなくても、これから皆さんが大学に出てそれぞれの地域の人以外のいろんな友達が出来てくる。

 そしてまた社会に出てどんな仕事でも様々な人と接して行く中でそのことは自然に身についていくので、いまのうちからそうしなきゃいけないっていうふうにあんまり今日の話を聞いて思ってもらうこともない。そういう吸収力さえあれば、つまり自分だけが正しいと思って人の意見を聞かないというような人間にさえならなければ自然に社会に出て人脈がネットワークが広がってくるうちにそういうものの見方っていうのは身についてくるんじゃないかと思います。
 

(田中)
 橋本さんにはもう一つご質問したいんですけど、生まれも東京で福岡、大阪と回られて高知には全く関係のないように見えるんですけどいつ高知の知事を目指されたんでしょうか。
 

(橋本)
 これはですね、さっき言いました僕が中学・高校と東京で過ごした学校の友達と関係があるんですけれども、その中学・高校時代の友達で高知大学の大学院を出てそのまま高知の方と結婚をして高知県人になっていた人がいました。

 今からもう十一から二年前のことになりますけれども、僕が最初に知事になったのが平成三年の暮れのことですからそのちょうど一年前ぐらいにですね、その友達から電話がかかって来ました。

 その翌年平成三年に知事選挙があるんだけれども、今のままだとなんか古くさい選挙で面白くない選挙になりそうだと誰かいないかなって話をしていて、それで橋本君に知事選挙に出て貰ったらいいねっていう話になったんだと。そんな電話が来ました。

 僕はその友達が回り近所の人と酒でも飲んでいて、冗談で言っているんだろうなと思いましたから、別に名前出して貰っても迷惑なことはないからどうぞどうぞご自由にと、こう言っていましたら、その友達の仲間達が僕を知事選挙に出そうというのでいろんな署名活動をして下さって、何人の署名が集まりましたと言って何人かの方々が東京まで来てお話をして下さるようになりました。

 それでそこまで言って下さるなら真面目に考えなきゃいけないなと思い始めたのがきっかけです。ですから瓢箪から駒という言葉がありますけれども、全く自分でもそれまで予想していなかったそんなことが突然降ってわいたというのが正直なところで、自分自身が考えることは勿論考えましたたけれどもそんなに理詰めで考えて高知でどうのというよりもその友達や多くの県民の方の署名で誘われて、どこかでえいやっと決めたいうのが実体です。
 

(田中)
 ありがとうございます。そういうきっかけというのが一つ一つあるんですけれども、許斐さんの方は今まで国立精神神経センターの室長をなさったりそういう結構上の方でやってたのに埼玉にね、
 

(許斐)
 それも先程言いましたけれども、先程の社会に貢献するって話なんですけれども、私は大学卒業して十三年間結局研究者としての道をずっとやってたんですね。研究者っていうのは特殊な、俺が、俺がっていう世界なんですよね。俺が一番っていうのが研究者の世界で俺が一番世界中で最初にやるっていうのを競う世界なんですね、ある意味ではね。

 本当の研究っていうのはまた違う側面があると思うんですけど、少なくても私がその当時にいた実感としてはそういう側面がありまして、研究費を取るときはやっぱりこれは世界のためだとか人々のためだというふうに研究費の申請を書く時はまず枕詞がいりますのでね、こうこう、こういう必要のためにっていうように書くんですけれども実際的にはやはり自分が自分がっていうそれが全面に出る世界なんですね。

 当時思ったのは何でじゃあ研究の生活にずっと入っていったのかと言うと一つは自分はやっぱりもともと世界のトップのいわゆる第一線のトップの人達がどんな生活をして何を考えてやっぱり考えているのかなあと知りたかったですね。だからハーバード大学なんかに留学して本当に今のような分子生物学の一番最先端の人達のお話を聞いたりとか一緒に実験をしたりということはこれはすごく大きな体験でした。

 だからただそれもすごく私もあこがれて実際やって、アメリカから日本に帰ろうかどうしようか、まあポジションは日本にはあったんですけれども、まあ向こうにそのままいないかっていう誘われたりもした時に、やっぱり自分が考えたのは結局化学っていうのは物、物質をずっと追求するんですね。やっぱり物質を追求して俺が俺がという世界なんですけども、やっぱりそこに自分の中にどっかに違和感があったんでしょうね。

 だからそれがやっぱり自分をこういうふうな発達障害の世界に連れて行ったものかなっていうふうに思います。だからそういう意味では本当に私が皆さんのためにっていうか何とか子供達のためにって思い始めたのはやはり四十過ぎでのそういう後ですね。

 また臨床にもどって自分の業績っていうよりも何とかして目の前の悩み苦しんでいる人達を引き上げたいって思うようになったのはそれからで、やっぱりそれまでに四十年間以上の歳月が必要だったのかなあということを思います。

 だから今いわれましたように橋本知事の方からいわれましたように、皆さんも今すごく自分が興味があることを一生懸命やられてしかしそういうやってるときに本当に自分の中から先程私話しましたようにやっぱり何か違うといううずくような感覚というものが必ず出てくると思いますので、そういう感じはやっぱり大切にされると自分の本当の本来向かうべき物に向かっていくんじゃないかなとそういう風に今思っています。
 

(田中)
 ありがとうございます。國弘さんにお聞きしたいんですけど、たくさんの経歴を持っていらっしゃる中で参議院にも出ていらっしゃるんですけれども、1969年のアポロ11号月面着陸時の同時通訳をやられた時の話などをしてもらいたいんですけど、どんなんでしたでしょうか。
 

(國弘)
 わたしはね、同時通訳をアポロでやってくれってNHKの人に頼まれた時にですね、私は嫌だといって逃げて歩いたんです。ところがね、敵もさる者でしてね、私は当時自分のNHKの定期番組を持っていたわけですよ。それでね、定期番組を持ってるっていうのはね、向こうにね、ものすごい優越感を与えることなんですね。

 それでね、私も考えてね、アポロの同時通訳なんてごめんだと本当は思っていたわけ。僕は機械に弱いからね、メカに弱いからね、そんなこと言ったって分かるわけねえやとこう思ったわけ。そして逃げて歩いていたんだけれどもね、ある山梨県の清里というところに逃げてたんですが、NHKの偉い人がやってみえましてね、それで無理矢理に山を降ろされてね、東京へ連れて帰らされちゃったわけですよ。

 それでまあしょうがないね。しかも暑い時でしたよ。8月だったか、7月だったかな。今と違ってね、空調の設備なんかものすごく悪いんですよね。たしか三日間かな、不眠不休でね、眠ることが出来ないくらいにですね、そのこき使われたわけですよ、NHKに。それでね、しかもね、お月様と地球との距離というのはね、三八万キロくらいあるわけだよね。

 これ季節によって少し変わるんだそうですけどね、天文学の人に言わせると。あのときは確か三八万キロとかいうんだよね。それがね、しかも三八万キロストレートに音が来るわけじゃないんですよね。どっかいって、インド洋の何とかいう衛星にいってそれで一回また戻ってそれでまた、百万キロぐらいね、旅をしてきた音がとぎれとぎれに聞こえてくるわけですよ。

 僕はね一回ね、NHKの人に頼まれたときにね、お月様の同時通訳をやれって言われたときにね、私はこの世の声ならいくらでもね、通訳してみせますと。げんにやっていたわけ。NHKの、それまでのNHKの同時通訳の番組っていうのは僕がほとんど全部各分野にわたってやってたわけですよ。だからこの世の声なら出来るけどね、百万キロ離れてるっていうのは、これはね、もうあの世の声ですよ。

 私は霊媒ではありませんからね、あの世の声はね訳せませんって言ったのよ。ところがね、結局そういう調子でね東京へ連れてこられてね、まあその羊がですね、いよいよ絞め殺されるとこに屠所に引かれる羊という古い言葉があるんですけれども絞め殺される前の羊のごとくとぼとぼとした足取りでNHKのあれに入ったわけよね。ところがその時は夏でしょう。暑いでしょう。三日三晩ほとんど徹夜でしょ。

 それでどんな音が聞こえてくるかというと百万キロ離れたような声が聞こえてくるわけでしょう。とぎれとぎれもいいとこなんですよ。そんなものができるわけないじゃないですか。聞こえないものどうやって訳すんですか。ところがね、NHKの偉い人がね、僕にね、とにかくね、同時通訳というものが一番信頼されなくなるのは元々が聞こえるのに通訳の人が何も言わないと、これぐらいね、同時通訳っていうものの信頼性を失うものはないんですからね。

 何でもいいから、向こうが何か言っていたら何でも良いからしゃべって下さいと。NHKの偉い人がそういうことを言ったのよ、僕に。そうですかって僕も純情だったというのか何というのか、とにかく聞こえないでしょう。そこでね、随分作文をやったんですよ。ある時ね、話が長くなってごめんなさいね。ある時ね、どうもね、オリジンというね、オリジンという言葉とおぼしきものが聞こえたわけ。ほかのことは何も聞こえないわけ。

 それでオリジン一発でね、一つでね、何か言わなくちゃいけないわけよ。何か言ってるんだから。聞こえないんだから、ガーガー、ガーガー言ってて。しょうがないから僕は作文をしたんですよ。今私こうやって月の上に降りて石を拾ってますと。水成岩を拾ってたのな。という言葉がありましたがね。石を拾ってますと。これによってね、月の組成がね、月の成り立ちというか元々の出来具合がね、分かるかも知れませんと。

 それを願って石を拾ってるんですとこう言ったのよ。うまくいったなと思ったわけよ、僕は。ただまだ何か言ってるのよ。それで何か作文を足さなくちゃいけないじゃない。そこでね、しょうがないからね、月の組成が分かればね、もしかしたら地球のね、オリジンというか組成もですね、分かるかも知れないと願いつつこうやって拾ってるんです。

 てなことを言ったわけ。作文ですよ、これ完全な僕の作文綴り方。当時はね、NHKのヒューストンってところかな、アメリカのヒューストンからどういう会話がですね、交わされたかってことが返ってくるわけね、三十分後くらいになると。ところがNHKのニュースではね、國弘さんの訳で何々船長かく語りきっていうのニュースにぱっと出しちゃったわけ。

 それでね、月の組成がどうやら、こうやらね、地球の組成がどうやらこうやらということ言ったといってNHKがニュースとして流したわけよ。三十分ぐらい経つとね、実際に行われた会話のね、ティッカーがヒューストンから戻ってくるわけですよ。それを見てみたら何にもそんなこと言ってないわけよ。それでね、後でね、ものすごく叱られてね、いくら何でもね、困るじゃありませんかと叱られたんですよ。

 だってあなたが言ったじゃないですか。何でもいいから聞こえたらとにかく何か言って下さいと言われたから僕は言ったんです、と言ってね、僕もそこらへんは図々しかったと思いますけどね。ということがありました。だからね、あれは僕の一生にとってある意味では栄光であったけれどもね、恥多き栄光でしたね。これはもう元NHKの橋本知事がいらっしゃるから。あえてその点を強調してですね、以下にNHKが無理矢理なことを僕らに強いたかということを敢えて申し上げたい。
 

(田中)
 ありがとうございました。後の方を山田さんよろしくお願い致します。
 

(司会)
 人生はったりも必要なんだなあというふうな気もしましたけど。一応時間ですので、今日そろそろここでちょっとまとめてみたいと思います。私は橋本さんとかいろんな方のお話伺いまして、人生のですね、たとえば橋本さんの場合は高知県知事を自分からやろっとじゃなくてまわりからかなりの要請がきてそしてやっていらっしゃる。

 しかし知事になられては皆さんもご存じのようにものすごく改革派の知事としてやっていらっしゃるということですね。私はよく普段思うんですけれども、自分から選び取る人生というのと、人からある程度設定された人生というのがどうしてもあると思うんですね。そちらを選ばざるを得ない人生もある。

 そうした場合にやっぱりどちらもですね、本当に力を込めてやればそれぞれ道がどんどんひらかれていくということを私は皆さんにですね、ぜひそのことを知っていただきたいなあというふうに思います。そして今日一日ですね、許斐さんがですね、WHATWHY HOWということをおしゃいましたですね。

 HOWどのように勉強するかじゃなくて何を大切にするかというWHATそしてWHYなぜ勉強するかというところをですね、常々大切にして、皆さんもこれからの人生を送って戴きたいと私は許斐さんの講演を聴きながらそういうふうに思いました。それは勉強だけじゃなくて私達にも言えることで、たとえば私でしたら医師であればなぜ医師をしているか。

 どのようにするじゃなくて、なぜ、何を大切にするかということをこれは全ての人生に言えることではないかかなあというふうに思ってお聞きしておりました。今日はですね、三人のシンポジストのお話から、いろんなお話、戦争の話からいろんなお話をしてきました。そして私達一人一人がこれまでのものの見方や考え方を本当に変革していくことが必要なのではないかということを思います。

 皆さんの中にはこの社会はですね、大人が作った社会であってがっちり固められて変わりようがないんじゃないかというようなことも思ってらっしゃる方があるかも知れません。また自分は能力がないからもう何も出来ないというふうに思ってらっしゃる方もあるかも知れませんし、社会や世界はものすごい大きくて私一人はちっぽけなもんで私一人が変わったってどうしようもないというように思いこんでいらっしゃる方もあるかも知れません。

 でもたとえば今日拝聴しましたガンジーとかヘレンケラーのようにたった一人の変革が国民そして世界を変えていったという事実をですね、私達は決して忘れたくないとは思っています。本当にこれまでの常識にとらわれることなく自分の信じる道を突き進んで、自分の事だけじゃなくて日本のため、世界のため、地球のためそして人類のために君たちの人生を使ってほしい。そのように思います。

 是非この瀕死に陥っている地球を救って下さい。世界を何とか救って戴きたいと思います。二十一世紀を背負う皆さんは本当に未来そのものであるという若者であるからこそ本当にこの今日のシンポジウムが少しでも皆さんの心に残ればというように思います。本当に今日は二時間三十分あっという間に時間は過ぎましたけど、有意義な時間を過ごして戴けたんじゃないかと言うように思います。シンポジストの皆さん本当に有り難うございました。
 

(理事長挨拶)
 大変長時間にわたりまして熱心にお聴きいただいたことを有り難く思います。またパネリストの方々も個性溢れる方々でありまして、本当に有り難うございました。

 こんなお忙しい中をまた大変な中をお集まり戴き、我々といたしましてはもう少し大人の方の数が多かったら良かったなという気も致しますが、子供達もこれを熱心に聴き、ある場合には居眠っている者もおったかも知れませんけれども、ともかくこの時間にわたりまして感動あるシンポジウムが終わることが出来ました。

 このことを心より皆様方にお礼申し上げまして、私共のご挨拶と代えさせて戴きます。今後ともまたよろしくお願い致します。皆様方のご健勝、ご活躍を祈ります。心から我々はファンであります。今日のほんとに個性溢れたパネリストにも恵まれましたことを心より感謝しております。有り難うございました。有り難うございました。


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