時代を拓く「協働のメディア」は、いかにあるべきか

公開日 2007年12月08日

更新日 2014年03月16日

時代を拓く「協働のメディア」は、いかにあるべきか−お暑い中のホットな話題−

高知県のための掲示板・フォーラムサイト【ぷらっとこうち】に関して、知事が思いを寄せた投稿文章です。

皆さま、お暑うございます。
 最近「ぷらっとこうち」の運営をめぐって、熱い議論が戦わされていますが、このサイトの立ち上げを、「県民参加型の県政」を進化させていくための、大切な一歩と位置づけていた当事者として、今回表面化した問題をもとに、今後に向けた考え方をまとめてみました。

 まず、今回の問題を考えているうちに、「県民との協働」を進めるにあたっては、官が民に向けて、受け皿を提供するのではなく、逆に、民の側から官に向けて、協働の場を構えるべきなのではないかと、感じるようになりました。と言っても、それだけでは、何のことかわからないと思いますので、順を追ってご説明をします。

 その中で、この5月以降に起きた、書き込みの削除や登録の抹消に関する事実関係と、双方の見解の違いは、今の時点で、僕が口を差しはさむことではありませんので、ここでは、もう少し根本にさかのぼって考えてみたいと思います。

 その際、検討の切り口はいくつもありますが、ここでは、関係者との意見交換の中で、自分が気になった言葉をもとに、「責任の所在」、「誹謗中傷の基準」、「『ぷらっとこうち』はメディアか」、「第三者機関の設立」、「『官から民へ』か『民から官へ』か」という項目を追いながら、考えをまとめてみます。

 最初は、「責任の所在」ですが、「ぷらっとこうち」の現状を批判される方からは、責任の所在が不明で、例えば、今回の登録抹消の手続きも、誰の指示で行われたのかがわからない、といった声が聞こえてきます。
 
 しかし、「責任者を出せ」とか、「誰の指示なのか」と問う発想そのものが、民が官を見る際の、旧態依然の型にとらわれたもので、協働の時代にはふさわしくないと思います。
 
 では、協働の時代の責任とは何かと言えば、それは、官やその中の一個人にあるものではなく、協働の作業に参加している一人一人が、自己責任として負うべきものです。ですから、一人一人の自己責任を、まず自覚すべきで、官の責任者うんぬんは、自分には、協働とは無縁の古くさい考え方に映ります。
 
 そこで、次には、自己責任が発生する源を考えなくてはなりませんが、その重要なポイントは、「ぷらっとこうち」に参加される時の約束事項です。中には、どこのサイトにもある、形式的なものだと軽く考えて、機械的に了解のクリックを押した方もおられるかもしれませんが、「ぷらっとこうち」を通じて、協働作業の一員になるのですから、これが自己責任の源だとの明確な意識を持って、参加していただかなくてはいけません。

 その上で、他者を誹謗中傷しないことは、求められる自己責任の一つとして、一般的に守るべきルールだと思いますが、そう言いますと、それでは、「誹謗中傷の基準」は何かと、問う方がいても不思議ではありません。しかし、この問も、「ぷらっとこうち」にはふさわしくないものです。
 
 その理由は二つあります。その一つは、そもそも誹謗中傷は、差別発言と同様、それをする側が、ここまでは許されるといった基準を決めることではなく、される側がそう感じるかどうかが、目安になるべきだと考えるからです。「これは誹謗中傷ではない」という、基準を作るという考え方自体が、強者の論理ではないかと感じられます。少なくとも「ぷらっとこうち」は、強者のための場ではありません。
 
 もう一つは、「ぷらっとこうち」の目指す方向にかかわることですが、この場は、誰かを追及したり批判したりするための、意見発表の場ではなく、民と官の知識と知恵を寄せ合って、問題や課題を解決していく、または、何かを作りあげていく場だと考えています。
 
 もちろん、追及や批判の場がいらないと言っているのではありません。そうした場は必要です。しかし、僕が、そして高知県が、「ぷらっとこうち」を通じて目指したものは、そうした、追及や批判を主とする場ではありませんでした。

 県が目指した、県民の皆さんの知恵や知識を、課題解決などに活かしていく場であるかぎり、誹謗中傷と感じられるような表現は無用ですので、少しでも、誹謗中傷と受け取られるような表現を使う場合には、過敏なまでに、自己責任を意識する場であってほしいと思います。

 こうしたことからも、「誹謗中傷の基準」を気にされる方は、県が「ぷらっとこうち」を通じて目指した方向を、誤って理解されていると思われるのですが、そのこととも重なりあって、そうした方々は「ぷらっとこうち」に、マスコミやミニコミと同じ意味での、メディア性があると考えられているように受けとめられます。
 
 マスコミやミニコミというのは、規模の違いこそあれ、新聞、出版、放送、映画など、情報を大量に伝達するための手段です。そこでは、問題点の追及や批判が大きな使命になりますし、その分、表現の自由の範囲、裏返して言えば、どこからが誹謗中傷にあたるかといった基準が、重要な意味を持つことになります。
 
 しかし、「ぷらっとこうち」は、マスコミやミニコミのような、一方的な伝達手段ではありませんし、先程申し上げた、その目指すべき方向から考えても、基本的に、そのような性格を持つべきではありません。
 
 確かに「ぷらっとこうち」も、人と人とをつなぐ、また、お互いの意見を紡ぎあわせていくための、メディア(媒体)であることに違いはありません。しかし、メディアであれば何でも、マス・メディアやミニコミと同様の性格を持つかと言えば、そんなことはありません。ここでも、従来のマスコミやミニコミとは違った、「ぷらっとこうち」という新しい協働のメディアを、自分たちで作りあげていくという、改革と創造の視点が必要になります。

 あわせて、マス・メディア的なメディアとの混同から、それをチェックするための「第三者機関」が必要だといった考え方が、出てくるのだと思いますが、そもそも、「第三者機関」とは、どういう人で構成される機関なのでしょうか。そのことを主張されている方からは、現在700人余りいる会員の中から、選挙で選ぶといった考え方が聞こえてきましたが、これは、一見民主主義的に見えながら、実際には、民主主義をおびやかす危険性をはらんでいます。
 
 というのも、こうした制度を作った場合、世間を騒がせている、カルト教団のようなグループが大量に会員登録をすれば、自分たちの考え方を、一般的な考え方かのように見せかけることが、容易に可能になるからです。それならと、いわゆる有識者を選べば、その有識者が自分の意に添わない人だった場合に、「誰が選んだのか」、「選び方に客観性が保たれていない」などの批判が、際限なく、繰り返されることでしょう。

 以上、考えてきましたように、「ぷらっとこうち」の持つ性格や、目指すべき方向に関して、メンバーの中に、異なった考え方が同居していることが、問題の根幹だと思われますので、そこから派生的に生じたことをもとに、対立を続けてみても、時間の浪費にしかならないと思われます。
 
 ですから、まずは一旦熱をさました上で、県が、「ぷらっとこうち」という新しい時代の協働のメディアにかけた思いを、もう一度、考えてみていただきたいと思います。とはいえ、当然のことながら、県の考え方に賛成か反対かは、それぞれの個人の自由ですが、この場を、他者を攻撃する場としてではなく、協働による新しい仕組みづくりに使おうと考えられるのならば、そのことを前提とした取り組みをお願いします。
 
 ただ、それでも、理解は出来ない、これからも、自分の言いたいことを言い続けるという方がおられた時に、官が関与するというこのサイトの性格から、簡単にその方々に出ていっていただくことは出来ません。このことが、官が関与したサイトの持つ限界ですし、矛盾と言えるかもしれません。

 では、なぜ、内在するこうした限界に薄々気づきながら、県(官)が関与するサイトを設けたのかですが、一つには、「開かれた県政」や「県民参加型の県政」を、一貫して県の側から投げかけてきた経過から、この新しい協働の場づくりも、まずは県の信用力の掌中でと考えたことが挙げられます。

 ただ、それだけでなく、官と民の協働を進めるには、官の側の積極的な参加が必要になりますので、そのためには、県が主催するサイトの方が、県の職員が入りやすいのではとも考えたことも、大きな理由の一つでした。しかし、これは完全な思惑はずれで、例え県の主催であっても、余計なことに口を出しているゆとりはないし、そのことで、県の職員としての責任を求められてはたまらないという、職員の一般的な受けとめ方を、払拭することは出来ませんでした。

 それならば、官が背負う公平性の十字架から、本来の目標とは違うことにも関わらざるを得ないという矛盾を、これ以上、抱えていく必要があるのだろうかとも思えてきます。

 それが、最後に掲げた、「『官から民へ』から『民から官へ』へ」の考え方につながっていきます。その心は何かと言えば、先程も触れましたように、これまで進めてきた、「開かれた県政」や「県民参加型の県政」への取り組みは、「県政車座談義」や「知事への手紙」、「情報公開」や「ワークショップ」、さらには、「ぷらっとこうち」の前身になった「県民参加の予算づくりモデル事業」に至るまで、すべて、県庁の側から、県民の皆さんに手を差しのべたものばかりでした。

 それは、県庁に情報が集中している上、予算の編成権も委ねられているという立場から、当然と言えば当然のことだったのですが、その延長線上として「ぷらっとこうち」も、県が場づくりをして、県民の皆さんを迎えいれるという形を取りました。
 
 しかし、課題解決の道筋を考えるとか、何らかの意思を形成していくといった、官と民との協働作業を進めるにあたっては、何も官が場を設けて、民を迎えいれるという形だけでなく、民が場を設けて、そこに官が参加していく形でも、いいのではないかと思うようになりました。
 
 特に、官が関与するからといって、目論んでいた、職員の参加にはつながらないとすれば、むしろ、民の設けた場に、知事をはじめ、こうした取り組みに積極的な職員が、率先して加入していく方が、目指す方向に近い動きが作れるのではないかと感じたのです。また、そうすれば、官のように、公平性の原則に縛られて、本来の方向性を失いかねないといったリスクを、負わなくてもよくなります。

 逆に、民のサイトであれば、基本的な考え方の違う人は排除して、民と官の知識と知恵で、課題の解決にあたるといった、本来の趣旨をルールとして受けいれた人達の手で、協働の実践に集中的に打ち込むことができます。
 
 もちろん、追及や批判が必要だという方は、そういう考え方のサイトを開いて、官への参加の呼びかけをしていけばいいのです。少なくとも、現在の状況は、この二つの流れが分けられないまま、強い力に押し流される傾向になっていると感じられます。双方にとって、無駄なエネルギーが多すぎるように思えてなりません。

 今回のことは、結果的に、メディア論から協働のための新しい道筋にいたるまで、「県民参加型の県政」の今後や、次世代の民主主義のツールなどを考える上で、大変いい機会になりました。自分の知事としての15年間の歩みや、現在起きていることを踏まえながら、真剣に考えましたので、かなりの長文になりました。また、まとまりの悪い面もあろうかと思いますが、その点は、お許しを願いたいと思います。
 
 現時点では、「ぷらっとこうち」が本来目指した役割を、一人でも多くの方に理解をいただいて、その方向で、この革新的な場が機能していくことを願っています。

 県民の皆さんを愚民視したら、協働は生まれません。それと同様に、県の職員を批判して、自分の言うことを聞かせようとするだけでは、協働は生まれません。まずは、お互いが足らざる点を自認し、持てるものを差し出すことで、何かを作り出してみてはどうでしょうか。
 
 平成18年8月15日

                                                高知県知事  橋本大二郎 

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