公開日 2007年12月08日
更新日 2014年03月16日
大方高校「おおがたソピア塾」での講演
平成17年11月18日(金曜日)13時30分から(大方高等学校)
皆さん、こんにちは。今日は、大方ソピア塾にお招きをいただきまして、誠にありがとうございます。今日はこうやって高校生の皆さん方の前でお話をするのは本当に久しぶりのことですし、また、そもそもあんまりしないことですので、僕もいささか緊張しています。
というのは、今日いただいたレジメにも書いてあります通り、高校生の皆さん方に期待をするもの、というようなテーマですが、だとすると少々真面目な硬い話をしなきゃいけないということになります。
けれども、あんまり硬い話をしてると、皆に飽きられてしまうんじゃないかなというようなことも思って、いろいろ思い悩みました。が、あんまり思い悩んでも仕方ありませんので、まずは僕自身の高校時代のこと、また、今紹介を受けましたけれども、知事になる前に勤めていたNHKの記者時代に経験をしたこと、そんなことからお話を始めたいと思います。
僕が高校生だったのは、昭和37年、1962年ですから、皆さん方のお父さん、お母さんが生まれたか生まれないか、という頃ではないかと思います。で、僕は元々東京生まれの東京育ちですから、通った中学と高校は一貫した、くっついている男子ばかりの私立の学校でした。
中学に入ったときに何かスポーツをやろうと思って、柔道を始めました。中学3年間、一生懸命柔道の練習・稽古をして、高校に上がる頃には黒帯、初段までいきました。けれども、高校になった途端、友達にある誘いを受けて、柔道から今度は音楽の道に転向しました。
というのも、ちょうど僕が高校生になった頃に、ビートルズがものすごいブームを巻き起こしていましたので、友達があのビートルズみたいなバンドをやってみようと言って、誘いをかけてきたんです。僕も音楽に関心がなかったわけではないので、やろうやろうと言って、僕はエレキベースを買って、その担当をすることになりました。
けれども、いざやってみると、ビートルズのように楽器を演奏しながら歌を歌って、しかも、ハモルというのがものすごく難しいということが分かって、すぐにビートルズ・スタイルは諦めました。
で、同じく人気のあったバンドにベンチャーズという、これは歌は歌わずに楽器の演奏だけのインストゥルメントのグループですけれども。このベンチャーズのスタイルをやってみようということで、ベンチャーズのレコードを何枚も買ってきて、楽譜も読めませんので、レコードの音を聞きながら一生懸命その音を覚えて、演奏をしたものです。
といって、レコードというものもそもそも古いようで、CDやMDの世代の皆さん方に、感覚が伝わったらということも思いますが。そんなことで、ずっと高校1年から高校3年までは、音楽とかバンドとか、そんなことで明け暮れていました。
ですから、正直を言って、勉強をまったくしなかったわけじゃないんですけれども、あんまり好きな方ではありませんでしたし、かと言って試験の成績が悪いのもかっこ悪いので、試験の時だけ要領よく上手く過ごそうと、こういうタイプでした。
で、同じような仲間、友達と一緒に何とか試験をうまく、要領よく過ごす方法ないかなといって、思いついたことがありました。それは何かと言いますと、1年先輩・2年先輩で物持ちのいい人からその時の、つまり去年、一昨年の問題をもらってきて、そしてその答えをそれぞれの学科の得意な仲間に解いてもらって、その問題集・答案集をワンセットで売っていこう、ということでした。
生物の問題集・回答集というのが、特に人気がありました。というのは、その頃の僕たちの生物の先生というのは、その一学期中に教えた分野というのを全部、そのまま問題を出すんです。しかも、問題の作り方が、長い文章があって、それを四角いカッコで穴埋めしていって、その穴埋めのところに適当な答え、正しい答えを埋めていく、というやり方なんですが。
その書き方が、例えば( )は( )のとき、( )とかの性質を持っているけれども、( )の時は( )ともなるので、これを( )というふうにですね、もうこの文章だけ読めば、何だか分からないような文章が、ずらずらと並んでいるんですね。しかも、上の文章の間には、一箇所だけ間違いがある、それはどこか、なんていう、もう無茶苦茶な問題ですので、何も知らずにそれを見たら、本当に訳が分からないような問題なんです。
しかし、その問題の出し方に一つ弱みがあるということに、気がつきました。それは何かというと、一学期中に教えてくれたその範囲のところを、ほとんど、しかも問題の出し方が( )は( )の時、というふうなスタイルばかりですので、毎年毎年、あんまり問題の内容・形を変えられないんですね。
ということで、その去年・一昨年、1年前・2年前の先輩の問題をもらってきて、そしてその回答を生物が得意な仲間に作ってもらいました。で、これは当時ですからガリ版という形で印刷をして、ちょうどざるそばが35円ぐらいの時代でしたので、まとめたひととじの問題集・解答集を5円とか10円で売りましたら、飛ぶように売れました。ただ、その後すぐ先生に見つかって、こんなもので小遣いを稼ぐのはけしからんと言って、発売停止になってしまいました。
ということで、僕が行った学校は、そもそもは受験校と言われるような学校なんですけれども、だけど皆に別に勉強を強制するわけではなくて、まあ、勉強したい人は勉強しなさい。そうでない人は楽しく自分がやりたいことをやりなさいという、自由な校風の学校でした。
ですから、そうした高校生活の中で、高校生活というものを通じて、あんまり物事を深刻に考え過ぎない。いろんな面でこう、物事を柔軟に考えることのできる、そんなタイプの人間になったんじゃないか、と思います。
別な言い方をすると、不真面目ではありませんけれども、生真面目・くそ真面目でもないという、適当なバランス感覚を持って、ものを考えられる人間になったんじゃないかなと、自分は自画自賛をしています。
だから、そういうような生き方をしてきましたので、自分の人生の中での生き方というのを、初めからこういうふうにいこうと言って、決めつけてそこにずっとのめり込んでしまうというような進み方ではなくて、その場その場でいろいろ判断をしていく、そんな生き方をしてきました。
ですから、大学に入って4年間過ぎて、いざ就職ということを考えたときにも、相当迷ってしまいました。というのも、今言いましたように、最初からなんかこういう道に進みたいという思いを強く持っていたわけではありませんでしたし、また、4年になってから過去3年分の成績を見てみますと、あんまり良くない。
当時は、その成績によっていい会社とか、いけない会社に、大学が推薦を出してくれるという仕組みがあったんですけれども、そういう推薦をもらえそうもない。しかも、小学校から大学まで、皆もそうですけれどもいつも春休みだ、夏休みだ、冬休みだ、長期間休暇があるわけですね。
それが急に会社に入って、夏休みも何もない。そんな生活でやっていけるかな、というようなことも不安に思いました。そこで、大学を出て、同じ大学の、最初は経済学部にいたんですけれども、今度は、法学部という学部の3年を受け直す、ということをしました。ですから、今ご紹介をいただいたように、経済学部と法学部を卒業したということになるんです。
そういう経歴を見ると皆さん、橋本さんは勉強が好きですね。経済学部と法学部二つもでてと言われるんですけれども、決して勉強が好きだったわけではなくて、今言いましたように要は、就職を少し後に延ばして、社会人生活を後にのばしていければなという思いからでした。
ただ、元々1年間、大学に入る時に浪人をしていました。そして、大学も学部で2年また余計に行きました。このために、今度は法学部を出ようという時には、成績はまずまずになっていたんですけれども、3年を余分に過ごしましたので、年齢制限に引っかかって、行きたい会社はほとんど受けられない、というようなことになってしまいました。
で、その年齢制限がなくて受けられたのが、証券会社とマスコミでしたので、そういう中で、まあ何とかかんとか頑張って、そのNHKに記者として採用してもらいました。
一昔前だと、NHKの記者で通ったのですが、最近は放火事件を起こすような人もいてですね、やや肩身の狭いような思いをします。けれども、それはともかくとして、NHKを20年近く記者として勤めて、仕事もしましたので、その時の経験を二つほど。一つは、少し硬い真面目な話。もう一つは、もうちょっと柔らかい話を、二つほどご紹介をしてみたいと思います。
一つ目の、硬いというか真面目な話ですけれども。それは今から20年前、昭和60年に起きた、日本航空のジャンボ機の墜落事故のことでした。
この事故は、ちょうど今年の夏が20年目になるので、新聞ですとかテレビなんかでも特集で取り上げられましたが、皆さん方もそういう事故があったんだな、ということをご存知かも知れませんが、この事故は520人の方が亡くなるという、日本の航空機の事故の史上では最高・最悪の事故です。
けれども、この事故が起きたとき僕は、NHKの東京の社会部にいたんですけれども、その取材ということではかなり出遅れてしまいました。
それはなぜかといいますと、社会部の記者だけじゃなくて、政治部も経済部もそうなんですけれども、NHKのニュースというのは夜の7時のニュースが、大きなメインのニュースですので、このニュースが終るまではニュース中に何か起きたときにすぐ対応できるように、ということから、すべての記者がそのNHKの放送センターの中なり、自分の担当する記者クラブの中に残っています。
ところが、その日は皆で、先輩や同僚と一緒にどこかで食事をしようと言って、6時前に放送センターを離れて、先輩の家に行って、食事をしていました。
ただ、ニュースは見なきゃいけないというので、テレビをつけて見ておりましたら、当時ニュースは7時半までだったんですけれども、その7時半、ニュースが終わる直前になって、松平さんというアナウンサー、今は「その時歴史は動いた」という番組をやっている人ですけれども。あの方が、「今入ったニュースです。」と言って、「羽田発大阪行きの日本航空123便、500何人の乗った飛行機が、消息が分からなくなりました。」と、こう言います。
もうこれは大変だ、というので早速、もうお箸も茶碗も投げ捨てて外に出て、タクシーを拾って、その渋谷の放送センターまで戻りました。
けれども、もうそのときは、社会部の方も、てんやわんやの状況になっていて、しかも、誰が何の分野の取材をする、という担当割りも決まっちゃってて、なかなか後から遅れてきた者には入り込む隙がないんです。そこでやっぱり、遅れて行ったデスクや同僚と一緒に、「それではもう、現場に行こう」ということで、車に分乗して、車に乗って現場に向かいました。
といっても、その時はまだその飛行機がどこに落ちたかということが、分からない状況でした。で、西の空の方を飛行機が飛んで行ったのを見たとか、また東の空の方に何か、火の玉のようなものが落ちていったのを見た、というような、いろんな目撃情報が寄せられる。そういうものを頼りに、じゃあ山梨県の方だ、いや、そうじゃない、長野県だ。群馬県だ。と言って、今申し上げた三つの県の県境の辺りを、うろうろうろうろしました。
だけど、結局、12時を過ぎてもその現場が分からずに、その日は長野県北相木村という村のお寺を借りて、泊まりました。で、その飛行機がその北相木村から山一つ越えた、群馬県の御巣鷹の尾根というところに落ちた、ということが分かったというか、自分たちのところへ伝わってきたのは、その翌日、といってももう数時間後ですけれども。夜が、まだ明けきれてないという頃でした。
で、それから夜が明けて、各社マスコミが、ワーッと行って、その520人の方が亡くなったという、大変な悲惨な事故の状況というものが段々伝わっていきましたし、そこには本当に数多くのエピソードがあり、ドラマがあるんですけれども、僕がこの事故に対して後になって反省をしたというか、ああ、こういうところが足りなかったな、ということに気づいたのは、もっとその事故そのものよりもしばらくたってからのことでした。
というのは、この墜落したジャンボジェット機は、その墜落をする数年前に大阪空港に到着をしたときに、後部の車輪が出ないで、その機体の後ろを滑走路に擦りつけるという、いわゆるしりもち事故というものを起こしていました。
で、そのしりもち事故の修理のために、アメリカのシアトルにあるボーイングという会社にその機体が運ばれて、そのボーイングの工場で修理をしたんですけれども、その修理の仕方が悪かったために結局、その墜落事故につながっていたんです。
ですから、そういうことがやがて分かってきて、その事故で亡くなった被害者のご遺族の方々が、そのボーイング社などの修理ミスが原因だと言って、損害賠償を求める裁判を起こす、ということになりました。
で、その頃僕は、今はもう無くなっちゃってますけれども、ニューストゥデイという番組で、社会関係のニュースを伝えるというキャスターの役割をしていましたので、その損害賠償を請求するというニュースを担当することになりました。
その時、一緒にその取材をしていた若い後輩の記者が、あの頃、橋本さんまだ若かったですね、と急に声をかけられました。でも、何のことか分かりませんでした。何の事って言って話を聞いてみて、ようやく分かったんですが、今言いましたあのジャンボジェット機の墜落、その原因となった大阪空港でのそのしりもち事故のとき、その事故を取材をして、その現場でカメラの前でレポートしたのが、自分だったんです。
ところが、そのことをその後輩の記者から言われるまで、まったく覚えていませんでしたし、実際にジャンボ機が墜落した時にも、そんなことをすぐひらめくことができませんでした。
なぜかって言いますと、そのしりもち事故が起きたとき、確かに取材には行ったんですけれども、自分自身が大阪空港を担当したわけではなくて、担当していた先輩の記者がちょうどお休みで、代打でピンチヒッターでいってたんですね。
しかも、これは乗員・乗客も、誰も怪我も何のトラブルもない、まあ、後に尾をひくような事故じゃないな、ということで取材をして原稿を書いて、そしてカメラの前でちょっと短いリポートをとって、もうそれで後は終わりだということで、忘れてしまいました。
しかも僕はそもそも、今も自動車の運転免許を持っていないんですけれども、あんまり機械のことは好きじゃありませんので、飛行機のことも興味が湧きませんでした。もし、何か興味を持っている人ならば、その機体が後どうなったか、ということも追跡をしていたんではないかな、ということを思います。
もしその時、そういう興味を持って、あの機体はその後どうなっただろうか、といって追跡をしていれば、そういう取材をしていれば、その飛行機がそのアメリカのボーイング社に運ばれて、ボーイング社の工場で修理を受けたということは、きちんと自分でも掴んでいたと思います。
そうすると、飛行機の機体の番号というのは、飛行機がスクラップになるまでずっと変わることはありませんから、そのジャンボジェット機が墜落をした時、その機体番号を見ただけで、あっ、あの時、大阪空港でしりもち事故を起こした飛行機だ、ということがすぐ分かりますし、そうだとすれば、あのしりもち事故の以後修理で、ボーイング社に出した、その修理に何か問題があったんじゃないか、ということがすぐひらめいたはずです。
そうすれば、その修理に原因があったというふうなところまで、他の記者よりも誰よりも早く、そこにたどり着けたんじゃないかな。自分がそういう努力を怠ったために、そういうせっかくの機会を失ってしまったな、ということをとても自分自身残念に思って、反省をしました。
で、このことを考えるときに、一つ思い出す諺があります。それは何かというと、「棚からぼた餅」と、こういう諺です。「棚からぼた餅」という諺は、本来は自分があまり努力もしない、また特に期待もしていないのに相手の側から幸運が降ってきて、大儲けをしたというのが、「棚からぼた餅」です。
ところが、この事故よりももっとずっと後のことなんですけれども、ある先輩からこの棚からぼた餅ということの解釈、もうちょっと深い意味合いがあるという話を聞いて、うん、なるほどと思ったことがあるんです。
それはどういうことかというと、ここからは、その僕に教えてくれた先輩の話ですけれども、棚からぼた餅と言うけれども、それはその棚のそばにいる、また、棚のある部屋にいるから、ぼた餅が落っこちたときに、ああ、落っこちたと気づいて、すぐに拾うことができる。もし棚からずっと遠くにいたら、棚のある部屋と全然別の部屋に一泊していたら、棚からぼた餅が落っこちてもそのときに気がつかないし、後になって、あっ、落ちてるな、と思って拾ったときには、ぼた餅のあんこは腐っているかも知れない。
で、記者というのは、当然、その棚のどこかにぼた餅があるという臭いを嗅いで、嗅ぎつけたら、そこによじ登って持っていく、つまり特ダネを取材して持ってくるというのが、本来あるべき姿だけれども、誰もそこまでやることはなかなかできない。とすればせめて、あ、あそこにぼた餅があるな、ということに気づいたら、もしかして落っこちてきたときにすぐ拾える。そういう距離、棚の近くにいつもいる、またはその部屋を1日1回は覗く、というぐらいの努力はしろよ、と、こういう話です。
520人もの方が亡くなった事故を、ぼた餅にもちろん例えてはいけませんし、そういうつもりではありません。けれども、あのしりもち事故ということが起きたときに、自分がもうちょっと後のことに関心を持って取材をしていれば、そのボーイング社でのこういうことなども分かり、そして、ジャンボ機が落ちた時にすぐ、その原因があれじゃないかなということが、ひらめいたんじゃないかな。という意味で、やはり何事にも少しでも、一歩でも興味を持って、それを深追いしていくというか追跡をしていく、そういうことが大切だな、ということを改めて思いました。
というのが、やや教訓めいた硬い話ですけれども、もうちょっと今度は柔らかめの話をしますと、僕はNHKにずっと20年いました。NHKのニュースというと、やや硬いニュースだという印象が非常に強いかと思います。
けれども僕がそうした中で、芸能関係のニュースにもっと力を入れて取り組むべきだということを、ずっと若いうちから言ってきました。といっても、別にスキャンダルが絡んだとかいうことを一つずつ取り上げて、ということではありません。
けれども皆も好きなような、皆がファンになるような、そういう歌手だとかタレントだとか、俳優だとか。そういう人たちのいろいろな活動など、そういう方々の人生に関わることというのは、多くの人が関心を持つことです。
また、それ自身がニュースとして伝えるべき社会現象ではないかな、ということを思っていたんです。僕がNHKの大阪放送局に勤めていた時に、それこそその時代に一世を風靡した山口百恵という歌手が、大阪のフェスティバルホールでの公演の時に、私は俳優の三浦友和さんと結婚します、という結婚宣言・引退宣言をしたという、有名な話題がありました。
そのことはその数時間後に知ったんですけれども、それを大きなニュースだから伝えるべきだ、ということを僕は書きましたが、まだ10年足らずの若い記者ですので、あまり取り上げられぬまま終わってしまいました。
その後東京の社会部にいた時、今度は戦後の映画界でも最大のスターだった、石原裕次郎さんという、今の東京都知事の弟さんですけれども、この石原裕次郎が解離性大動脈瘤という大きな病気で、東京の慶応病院で手術をしたというニュースがありました。
当時、民放は大々的に毎日毎日、朝晩、その状況がどうかということを伝えるようなことをしていました。で、このことをNHKが7時の、それこそメインのニュースで伝えるかどうか、ということを局内で相当、喧々諤々の議論になって、僕はそのことに反対する先輩の人に対して、それはおかしいじゃないか、ということを随分言い合ったのを覚えています。
次は、僕自身が書いた原稿に関わることですけれども、松田聖子という歌手がいます。といっても、これもまた、皆さん方から見るとお母さんの多分世代になるかというふうに思いますけれども、その松田聖子が九州福岡の久留米から上京して、サンミュージックというプロダクションの独身寮にいたんですが、そこから出て、お父さん、お母さんと一緒にマンションに生活をするという時に、我が家が住んでいたマンションの部屋が2階にあるんですが、その3階の部屋に越してきて、数カ月間一緒にいたということがあります。
非常に人数も少ない、そして、世帯数も少ない、そんなこぢんまりとしたマンションでしたから、段々そのご家族ともお知り合いになれたし、また、友達の人ともおつき合いができて、いろんな情報が入るようになりました。
ある年の暮れのことですけれども、この松田聖子さんと、同じく歌手の郷ひろみさんとが、やがて結婚するんじゃないかということが噂されていて、しかも、その年の紅白歌合戦に一緒に出場するということで、大きな話題になっていたことがあります。
ところが、そのいろんな情報ルートから、松田聖子さんが郷ひろみさんと別れるということ、そして、それと同時にアメリカに渡ってレコードデビューするということをかぎつけました。で、自分で原稿を書きました。
松田聖子さんが噂されている歌手の郷ひろみさんとの仲を精算して、来年新たにアメリカに渡って、レコードデビューすることになりました、ということで始まる原稿を書いて、デスクに渡しました。本当は、それがNHK放送されるとは思ってはいませんので、半分遊びだったんですけれども、それなりに文字になりました。
けれどもその年が明けたお正月間もなく、ある週刊誌に、ひろみさんさようなら、という、松田聖子の独占手記があって、実際にそれから、神田正輝さんと結婚するということになるんですが、そういうことがあって、その僕の原稿をボツにしたデスクからも、いや悪かったなとあの時せっかくの特ダネだったのにと言って、笑って話をしたことがありました。
NHKのニュースというのは最初にも言いましたように、政治のニュースだとか、そういう硬いニュースが中心だというイメージ・実態もそうですけれども。そして民放、民間放送は、ニュースだけではなくて、ワイドショーとかいろんな番組を持ってきて、芸能関係の事なんかも非常に熱く放送をしている。そんな色分けがあります。
そういう中で、僕が今言いましたように、芸能関係のニュースというのは、広く多くの人が関心を持つ、また新しい社会現象なんだから、そういうものをもっと伝えていくべきだ、ということを言ってきましたが、結局NHKのニュースというのは、伝え方も内容も、それほど大きくは変わっていないように思います。
これに対して民間放送の方は、このニュース番組もそうですし、いろんな番組の中でも、政治というものを伝えるその名目というのは、どんどんどんどん増しています。
特に今、小泉さんが総理大臣になってから、毎日毎日、テレビでとっても扱いやすいように、短いインタビュー、一口のコメントでインタビューを毎日毎日提供していきますし、またその選挙の時の刺客だとか、小泉チルドレンだとか、テレビが非常に取り上げやすい、取り上げたいような言葉、またそのような話題というものを次々提供するという、そういうマスコミ向けの戦術をとっています。
ですから、もうワイドショーなども含めて、民間放送が政治というものを伝える。そのボリュームがどんどん増していきました。その結果、いいことか悪いことかというのは、いろんな社会的な評価があるとは思います。
けれども、この民間放送が伝える政治のニュース、政治の話題というものが、今の政治の流れ、選挙というものに大きな影響を与えるという時代になってきました。
こういうことを見てきたときに、僕はこれまでの培ってきたいろんな伝統だとか、やり方・ノウハウ、これをきちんと大切にしていくということは大切です。だけど、従来のやり方だとかノウハウだとかいうことだけにこだわって、その枠・殻から抜け出さないと、時代の変化っていうものになかなか対応できなくなってしまうんじゃないかな、ということを思います。
ですから、この従来の技とか伝統、ノウハウということは大切ですけれども、それだけに閉じこもるんじゃなくて、少しでも高いアンテナを掲げる、また広いネットワークを作る。そして、いろんなところに好奇心を持って、挑戦をしていく。そういう考え方が必要ではないかな、と思います。
皆さん方もこれから、自分自身の考え方だとか信念というのを、どこかで持っていくでしょうし、また持たなきゃいけないでしょう。だけど、あんまり若いうちから、自分の道はこうだ、こういう考え方が正しいんだ、という狭い範囲の物の見方に閉じこもってしまって、他のものが見えなくなってしまうと、それはとってもその後の人生を狭くしてしまうと思います。
ですから、できるだけアンテナを掲げ、そして、友達も決まった友達だけじゃなくて、年代のいろんな人とネットワークを作る。そして、様々なことに好奇心を持っていく、ということをぜひ心がけていただけたらな、ということを思います。
この中で、自分としてはとても楽しいNHKの記者生活を送っていましたが、そのNHKの記者としてそろそろ20年を迎えようかというときに、この高知の県内に住んでいる高校時代の友達から、平成2年の暮れですけれども、突然電話がかかってきました。
日頃、あんまり連絡がなかった友達なので、何かと思ってその電話にでてみると、来年、平成3年の11月頃に知事選挙があるんだけれども、今のままだと従来型の選挙になる、もうちょっと何か、それこそ腹を割るような、枠を超えるような、そんな選挙ができればと思って、いい候補者がいないかと思って、私を知っていて、急に橋本君に白羽の矢が立ったんだと、こういうふうに言います。
たぶん、テレビにも出ていて、多くの人が名前を知っているというようなことも、理由だったと思いますが。僕はその話を聞いて、あまりにも突飛な話でしたし、多分お酒などを飲みながら、冗談で出たことだろうな、ということを思いましたので、僕は別にそういうことで名前をだされても、全然構わないよ。どうぞご自由に、それでみんなが盛り上がるならやってちょうだい。ということを言いました。
そうしましたら、それこそ皆さん方のお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんの世代の皆さん方が、私をその選挙の候補者として担ぎ出そうということで、署名運動を始めて下さって、5,000人の署名が集まりました、10,000人の署名が集まりましたと言って、わざわざ代表の方が東京に来てくれました。
僕は、NHKの記者という仕事をとても楽しく、またやりがいを感じていましたから、そもそもは、辞めて何か他のことをする、という気持ちはまったくありませんでした。
けれども、そうやって熱心に、知らないうちに、当時年齢が、43,4歳だったんですけれども、何か別の道に転身をしていく、ということであれば、今40の半ばというのが、一つのチャンスかな、ということも思いました。
そして、繰り返し繰り返し本当に、熱心にそういうお誘いを受けたので、それならばというので、そこからはやや「えいやっ」という感じですけれども、この高知の知事選挙に出るという決断をしました。
その時、もちろん、いろんな人にいろんな意見を聞きました。が、決断は自分自身でしました。みなさん方もこれから人生の中で、いろんな決断を迫られる、判断をしなきゃいけないという時があると思います。その時はできるだけ多くの方の意見は聞いて、耳は傾けた方がいいです。
けれども、決断そのものは自分の判断でしなきゃいけません。ある意味、そうすることによって、後で悔いは残らないということが言えると思います。ただ僕の場合、そういう決断をして、さあ選挙に出ます、ということを言ったんですけれども、そんな無茶をしちゃいかん、もうやめときなさい。ということも、多くの方から言われました。
というのも、僕がさっきも言いましたように、東京の出身で、そして東京で生まれ育ちましたし、仕事も高知で仕事をしたこともありません。親戚もいません。いわゆる地縁も血縁も、ないないづくし。これに対して、当時の相手側の候補者の方は元の副知事さんで、県内の有力な団体だとか組織がこぞって応援をしている、推薦をしているという状態でしたから、誰もそんなところの土俵で勝てるわけがない、というふうに思ったんだろうと思います。
ところが、かなり多くの県民の皆さん方が、何か変えたいと思っていらっしゃったんでしょう。予想を超える形で、僕が知事に選ばせていただいたということになりました。
そうやってNHKの記者から知事という仕事になったときに、皆さん方からよく聞かれた質問があります。それはどういうことかというと、「NHKの記者という、取材をするという立場から、知事という取材を受けるという立場になって、何か困ったり戸惑ったりしたことはないですか。」という質問でした。
で、それに対して僕は、「戸惑ったことは一つもありませんよ。むしろ、NHKの記者という仕事が、知事という仕事にとても役立ちましたよ。」ということを、いつも答えていました。
というのも、僕がそのNHKの記者として社会部というところで仕事をしたわけですけれども、社会部というのはさっきの飛行機事故など、事件・事故、それから、教育・文化のこととか福祉・医療のこととか、産業のこと、交通のこと、自然災害のこと。本当に世の中の森羅万象を丁寧に取材をして、そして集まってきた情報を分析をして、皆さん方に分かりやすくお伝えするという仕事をしています。
これに対して知事という仕事も、まさに教育・文化だとか、福祉・医療だとか、自然災害だとか、事件・事故だとかいろんなこと、本当に世の中の森羅万象の出来事を聞き取って、そうしてその情報を確認をしながら、その中で判断をして、私の場合は今度は情報を伝えるという形で予算を組んだり、いろんな仕事をしたりということになります。
そこの仕事の仕方、また判断の仕方ということでは、記者の時のノウハウというものが大変役に立ちました。そういう意味で、本当に戸惑ったりなんかしたことはない、ということになります。
で、こういうふうな記者という仕事から知事に移ったのは、まさに14年前のことですけれども、あっという間に10年あまりは過ぎました。当時、僕が知事になったときは、全国で現役ではいちばん若い知事でしたし、日本で初めて戦後生まれの知事として、誕生しました。戦後生まれという肩書きはありますけれども、若さという面では、そのときはいちばん若かったんですけれども、今はもう47人中、下から21番目と。十数年という年月ということの長さを、改めて感じます。
その中で、自分自身いろんな仕事もしてきました。また、この高知県の中でまわって感じたこともいろいろあります。そういうことの中から、今日は、皆さん方に少しでも伝えておきたい、知っておいてもらいたいということで、三つのテーマで残り時間をお話をさせていただきたいと思います。
一つは、景観。見た目の美しさだとか、見た目のバランス、調和の良さ、心地良さという意味での景観。そして二つ目は、地球環境という問題。そして三つ目は、資源。資源と言っても、自然の資源、技術の資源、人の資源、3つほどテーマがあると思います。こういうようなことを残り時間、お話をさせていただきたいと思います。
最初の景観は、見た目の調和とか美しさということですけれども、僕は知事になってから初めに手がけた仕事の一つに、四万十川の景観を保全をするという仕事がありました。
というのも、四万十川は皆さん方もご承知のとおり、日本最後の清流ということを言われているわけですけれども、だんだんだんだんやはり水質も悪化をしてきています。また、周辺の工事とかいろんな変化によって、景観もだんだんだんだん悪化をしてきています。
ですから、知事になって間もないころ、四万十川対策室という、個別の川の名前をつけるという全国でも珍しい担当の課を作って、いろんな仕事に取り組んでいました。というのも、清流といっても、人の住んでいない人里離れた山の中には、きれいな川というのはまだまだ日本全国、いっぱい残っています。
だけど、四万十川のように194kmという長い大河、しかも、その周辺の人々の暮らし・生活、また農業などのいろんな生産活動の営みと折り合いをつけながら、あれだけの景観を保っている川というのは、全国にありません。ということで、いろんな事業等に取り組んできました。
そして、その集大成として、四万十川条例という条例を、国の法律と同じようなものですけれども、こういうことをしちゃいけません、こういうことをしましょう、という、そういう条例を平成13年の4月に作りました。
県だけではなくてこの四万十川が流れる流域の市町村、これは高知県内もそうですし、また、愛媛の県内にも町村がありますが、そうした町村一緒になって、そういう清流の保全を進めるための四万十川条例というものを作りました。
そして今この川沿いで、また、川から山の方を見るような景観を大切にしなきゃいけないところで、こんな工事をしちゃいけませんよ、また、勝手にこんなもの掘っちゃいけませんよ、というような規制をしていく。その地域指定の段取りというものを進めています。
また、こうした四万十川の保全ということに端を発して、今、全国に広がっていた道づくりの景観を大切にした道づくりの仕方というのが、一つあります。
それは、木の香る道づくり事業というものです。どういうことかといいますと、道路の幅を広げていく時に、山側を削ると、のり面という斜面が出てきます。
これを雨が降って崩れたりする危険があるということで、従来はそれを全部コンクリートで吹き付けたり、また、コンクリートのブロックで固めていったりということをしていました。
このために、せっかく緑豊かな山の中なのに、道ができただけでもうそのために、のり面のところはコンクリートで覆われて、その殺風景な景色なり調和が悪いねということがよく聞かれました。
そこで調べてみると、そういうのり面を削っても、半分は確かに安全上コンクリートなんかで固めなきゃいけませんけども、残り半分はそれほどのことをしなくても大丈夫だ、ということが分かりました。
そこで、その残り半分ののり面のところを使って、間伐材で木の枠を作って、段々を作っていく。そしてその段々のところに、苗が入ったポットをおいていきますと、もうあとは雨が降り、日が照り、自然に根が生えて、また元の植生が森林が蘇ってくる、という事業です。
この事業は、この四万十川から県内全域に、そして全国にほぼ広がってきましたし、最初に手がけたその木の香る道づくりが、もうすでに芽吹いて木が生えて、だんだんだんだん周囲の景観ともマッチするようになってきています。
また、この事業は、ただ単にそのコンクリートの吹き付けと違って、景観を良くするというだけではなくて、間伐材で木の枠を作ると。ポットの苗を作る。そんなことで、地域にも若干の経済効果があるんじゃないかと。そんな一石二鳥も考えて、始めた事業です。
今申し上げた四万十川の条例だとか、木の香る道づくりというものは、いわゆる自然環境、自然景観というものに対するいろんな対策ということになりますが、これからは、そういう自然の景観だけではなくて、町並みだとか都市だとか、そういうものの景観というものをもっともっと考えていかなければいけない時代になったと思います。
とはいえ、日本ではまだまだ、この都市とか町並みの景観ということにあんまり意識は高くありませんので、僕が外国で見て、「あ、面白いな。」また、「こんなことをしているのか。」と感心した例を二つほど、ご紹介をしてみたいと思います。
一つは、スイスのチューリッヒという市に行った時のことですけれども、そのチューリッヒの郊外に行きましたら、緑豊かな田園地帯があって、多くの空き地があります。が、そこにベニヤ板や木の棒で大きな模型のようなものが建っているのです。
それ何ですかと聞きましたら、その空き地に家を建てようとする人が、自分の設計した家が出来上がったら大体こういうような大きさで、部屋の高さも形もこんな格好になりますということをベニヤや棒を使って作った模型である、ということでした。
それは何のためにあるかといいますと、それを地域の人たちが見て、あ、この建物だったらば日中の日差しも邪魔にはにならないし、また、地域の景観ともマッチしていいね、と言ってOKが出たら、それからその建築を始めるということでした。景観とか、周囲との調和ということに対する考え方が、日本人とそのスイスの人とでは考え方に違いがあるということを改めて感じました。
二つ目の例は、イタリアにベニスという町があります。水の都と言われて、車が全くない、みんな船で交通をしているという、世界でも珍しい町ですけれども。このベニスのちょっと離れたところに、ブラーノ島という島があります。ここは漁村、漁師さんの町なんですけれども、その島に行きますと、まったく同じような建て方のおうちが、ずっと軒を連ねています。
ところが、その一軒一軒の外壁、外側の色が、クリーム色、薄い黄色、ねずみ色というように、それぞれ全部色が変えてあるんです。で、これはどうしてかと言って聞きますと、昔々その漁師さんが、ベロベロに酔っぱらって家に帰ったときに、自分の家がどれか分からなくて、隣の家に入って、隣の家の奥さんに抱きついちゃった。だから、そういうことが起きないように、向こう3軒両隣、外の壁の色は全部変えようということになって、こういうようなあつらえになったんです。こういう話でした。
これは本当の話なのか、それともイタリアの人らしい冗談・ジョークかお洒落か、分かりません。けれどもとにかく、やっぱり町の人たちが何らか合流しながら、外の色を変えていたということは、確かですし、そういう皆で町を造っていった。それが町並みの景観になり、今申し上げたような物語の上に、そしてその物語と景観が一つの観光資源となって、世界中から人がやってくるというようなことになっています。
考えてみますと、高知も自然景観ということでは、何の問題もない美しい景観を持っています。で、それに併せて、まちづくり、まちの景観というものを、屋根の形・色でもいいですし、壁でもいいですし、そういうものを少しでも皆が合意しながら、統一したきれいなものをやっていくということになったら、さらに大きな魅力になっていくんじゃないかな。そういうことが、また一つの新しい地域の誇りを作っていくんじゃないかな、ということを思います。
といっても、なかなか僕たちの世代では、それを実現をすることができませんでしたし、まだ難しいと思いますから、皆さん方が大人になっていった時に、地域で合意し、話し合って、なんかまちづくりをして、一つの景観を作っていく。そんなことができれば、さらに地域の魅力にもなるし、力にもなっていくんじゃないかな、ということを思います。
次は、地球環境に関することなんですが、地球環境ということをテーマにして高知県のことを考えるときに一番大切なことは、森林の問題です。
というのは、高知県は全国でも一番森林の比率が高い、県の面積の中の84%が森林という、全国で一番の森林県なんですけれども。やはり、外国から安い木材がいっぱい入ってくる。だから、高知だけではないですけれども、山の木を切っていてもなかなかお金にならないということで、山の手入れが行き届かない、ということが起きてきています。
このために本来、山の手入れが行き届いて、大きな木が育っていれば、大雨が降ったとしてもその降った雨は、その木の根っこのまわりにたまっていて、すぐには川に流れ込みません。
ところが今は、山の手入れが行き届かなくなっていますから、その根っこの周りに水を溜めるという力がなくなってしまって、その結果大雨が降る、もう山に水が溜まらずにすぐ、川に流れ込んで行きますから、山の方では崖崩れが起きる。また、下流域の土地では、そういう河川が洪水を起こして、大きな被害が出る、という危険がどんどん増していっています。
また逆に、雨が降らない年のときに、従来ならばその山に溜まった水が、じわじわじわじわと川に流れ出ますから、何日間も何週間も雨が降らなくても、別に下流の水に困ることはありませんでした。
けれども今は降った水は、すぐ川に流れ込んでしまうということになりますから、それからまた何週間か雨が降らないということになりますと、この間も早明浦ダムが干上がったというニュースがありましたけれども、あのようにすぐに、もう下流域の水が不足するというような問題が起きてきています。
さらに、こうした水の問題だけではなくて、森林は地球の温暖化という、地球環境の一番の問題の原因になります炭酸ガスというものを吸い込んで、そして私たちの暮らしという命に欠かすことのできない、酸素を供給するという大切な機能を持っています。
けれども、水だけではなくて、こういう炭酸ガスを吸って酸素を出すというような機能、こんな役割も、どんどんどんどん衰えていっています。こういうことは、山の人はみんな気づいているんですけれども、町の人は、高知でも例えば高知市の人が皆そういうことに関心を持っているという訳ではありません。
そこで、少しやはり、こういう森林の果たす役割も、今の森林の現状というものに皆の目を向けてもらおう。そのために、県民の皆さん皆で少しずついろんな負担を頂くことで、この森林のことを考えるきっかけを作ろうということで、平成15年に全国で初めて高知県が取り入れたのが、森林環境税という税金でした。
この森林環境税は、今高知県から始まって、愛媛県とか岡山県、全国の八つの県に広がってきています。また併せて、11月11日この間、こうち山の日というような、四国山の日という形で、さらに発展して山の取り組みが進んでいきます。
こういうことを積み重ねることによって、次は全国的に環境税というようなものができて、高知の森林だとかそういうことに全国の方の目が向く。そういう日が来ることを期待をしています。
また併せて地球環境ということで言いますと、今年の2月、京都議定書という、ちょっと難しい話ですけれども、さっき言った炭酸ガスだとか、フロンガスだとか、温室効果ガスといって、地球の温度が上がっていく、地球温暖化の原因になっている、そういうガスを減らしていきましょう、という世界的な各国の取り決めが、いよいよスタートをすることになりました。
その中で、日本は2008年から2012年までの5年間に、炭酸ガスだとかフロンガス、そういう温室効果ガスを6%平均で減らしていくという、国際的な義務を担うことになりました。
そうすると、さっき言ったように、森林はその地球を温めてしまう、そういう悪い影響を与える炭酸ガスを吸い込むという、そういう機能を持っていますから、森林を整備していけば、それだけ炭酸ガスの量を減らしていく、ということになります。
また一方で、国内にいろんな企業があって、いろんなものづくりをしていますが、ものを作る時には、電気を使う・石油を使うということで、また炭酸ガスを排出をします。
ですから、それぞれの企業によっても、自分たちがものを作るときに出した炭酸ガスを、森林の整備をすることによって吸収をしてってもらう、という意味で、森林の整備に企業が手をかしていくということも、一つのやっぱり社会的な責任として、これから考えなくちゃいけません。
ということで、この京都議定書というものが効果を発揮した、効力を発揮したということをきっかけに、全国の企業に、要するに高知の森林の整備に手を貸してもらえませんか、というようなことを情報発信をしています。
まだ、なかなか制度的な難しさもあり、また企業の皆さん方も、いきなり高知の森林の整備といって、なかなか納得をしてもらえないというふうなこともあって、まだまだ上手く進んでいない部分もあります。けれども、こういうこともぜひ協力をしていきたい、ということを思います。
もう一つ、この地球環境ということで言いますと、そうした大きな大気の問題だけではなくて、地道なそのもう少し、高知の県内でも地球環境で考えるべきことがあると思っています。
山と川と海というのが、高知の特徴ですけれども、さっきその山と川の関係は分かりました。が、海と山ということも、たいへん実は、密接な関係を持っています。
というのは、山の中にある森林の葉っぱが落ちて、そうして山の中で自然のたい肥になって、栄養になって、それが染み込んでいって、また川を通じて海に栄養が流れてくる、ということになります。
そして、その栄養素をプランクトンが食べる、そのプランクトンを魚が食べるということで、山の森林が元気でいたときの自然ということは、海のお魚がとれるかどうかということも関係をしてくるんです。
そういうことから、東北の気仙沼湾というところで、カキの養殖をされている漁業者の方が、「森は海の恋人」というキャッチフレーズで、漁業者や漁民の方々が山の森林の手入れ・整備をしていくという運動を、かなり前から興しました。今はもう、全国にそういう運動が広がってきています。
こうした中で、高知県の須崎市の横浪に、子どもの森というのがありました。これがいろんな理由で、去年廃止をしたんですけれども、その子どもの森の跡に今度、京都大学の山だとか森林のことを研究する研究所と、そして、高知大学の、今度は黒潮研という海のことを研究する大学院のコース、そして高知県とが一緒になって、この今申し上げた山と川と海との関連を研究をし、調査をする。そんな研究所がスタートすることになりました。
こうすることによって、この山・川・海という高知県のまさに地元にある、密着をした地球環境の問題で、新しい取り組みを全国にも情報発信していけるのではないかな。そんなことにも、ぜひ皆さん方にも関心を持っていただけたらな、ということを思っています。
以上が景観と自然環境のことですが、もう一つ、資源ということで、自然の資源と技術の資源と、そして人の資源ということをお話しをさせていただきたいと思います。
自然の資源ということで、山と川のことは、先ほど申し上げました。もう一つ、海の資源として、高知県には海洋深層水という資源があります。ご存知かと思いますけれども、室戸の沖合320mのところで汲み上げている、一番深いところにある海の水です。
この海洋深層水というのは、表面水、つまり表面にある海水とはまったく違った流れとして、この室戸の沖合にあるものは、北太平洋を楕円形でずっと長い時間をかけて、回っているという潮流です。
そして、上の海水とはまったく違いますので、温度も非常に低くて安定しているとか、雑菌が少なくてきれい、さらに、その代わりにカルシウムだとかミネラル、そういうものがいっぱい豊富に含まれている。というような様々な効果を持っています。
その海洋深層性の採水が始まったのは、平成元年。世界でも、ハワイとノルウェーに次いで3番目で、日本ではもちろん1番だったんですけれども。なかなかそれがいろんなものづくりにつながっていきませんでした。
そこで、平成10年のことですけれども、一度企業の人たちに自由にこの深層水を使って何か、ものづくりをしてくださいと言って呼びかけたところ、この深層水から独自のお塩だとかにがりを作っていく、手軽にそういう塩分を除いた水をミネラルウォーターとして売っていく、化粧水を作る、お醤油を作る、とうふを作る、パンを作る。もう本当にいろんなものづくりが進んでいきました。
また、農業の面でも、ナスの栽培をしているときに、そのナスの葉っぱに深層水をふりかけることによって、ナスの果肉、これを非常においしくて柔らかいものにしていくというふうな、深層水ナスというふうな作り方も出てきました。
このような形で、深層水を使ったものづくりというのは、主な地域産業の中に利用されていると思います。ですから、これからは、そのやっぱり深層水は本物だね、というブランドを作っていく。また、他とは違ったというような科学的な類推を示していく、そんなことが必要な時代になってきました。
そんな中、高知県がある大手の企業と一緒になって、その深層水の中に含まれるミネラルの部分を濃縮した液を作り、そしてそれに独特の糖をかけて、それを粉末にするというものを作り出しました。
こういうものを使って、また新しいサプリメントとか健康食品だとか、そんなものづくりにもつなげていきたいということを思っていますけれども、こういうような海の資源、自然の資源があるということも、ぜひ皆さん方に知っておいていただきたい、ということを思います。
二つ目に技術の資源ですけれども、高知県には土佐和紙を作るとか、染め物だとかいろんな昔からの伝統的な技術があります。が、それをさっきも言いましたように、伝統の型に閉じこもらずに、そこからでてって新しく、ものづくりに発展させたという例が、いくつかあります。それはまた後で紹介したいと思いますが。
一つは、日本高度紙という春野町に本社がある会社です。元々は、その高知の紙産業ですから、手すき和紙から始まりました。で、高知の手すき和紙には、ものすごく薄い紙をきれいにすく、こういう技術があります。
で、この技術を使って、タイプライターが盛んな時に、そのタイプライターの用紙にして売り出して、非常に当たりました。もう一時はアメリカの国にも多く輸出するということがありましたけれども、タイプライター用紙は10年ぐらいしか続きませんでした。
次にワープロが出てきて、もうタイプライターの需要が斜陽ぎみになっちゃったんです。で、そこで終わらずに、それじゃあそれを何に使えるかということを考えたときに、紙を非常に薄くすくことができる。
しかも、紙は電気を通さない絶縁、というような性質を持っています。そこで、絶縁紙というものをつくるという技術を開発をして、今その絶縁紙という意味では、この日本高度紙という会社は世界のシェアの70%、もうほとんど世界の市場を制覇するというような会社になっています。
もう一つは、ミロク製作所という会社ですけれども。この会社は元々は、鯨を捕るための捕鯨砲をつくっていた会社です。けれどもご承知のとおり、鯨を捕るということがどんどん制約をされて、捕鯨砲を作ってもなかなか商売にならない、仕事にならない。
そこで、銃を作るという仕事を使うノウハウ・技術を使って、日本の国内では売れませんけれども、海外、アメリカ用にということで、ライフル・ピストルだとかいうものを作りはじめました。
今は、もうその生産はもちろんやっています。けれども、ライフルと言ってそれを作ると、そのライフルの手で持つところの木を加工するという技術が出てきます。
そこで、その木を加工する技術を今度は、次の何か新しいものづくりに使えないかということをずっと考えて作られたものに、木製のハンドル、木のハンドルというのがあります。これは正方形の板を丸くくり抜いて、で、ウレタンという芯に両枠をパコッとはめ込んで、そのミロクの技術でうまく磨きあげていくものです。
こういう本物の無垢の木を使ったハンドルというのはここの技術だけですから、今、トヨタ自動車などにも取り入れられて、たいへん大きな雇用へつながっています。
というように、この土佐和紙にしろ、こういう銃から出てきた技術にしろ、従来からなる伝統とか技術、ノウハウを大切にしながら、しかし、その殻だけに閉じこもらずに、何か今の時代、その技術が使えるようなものはないかと、そういうアンテナを立てて、そしてそれを新しいものづくりにつなげていったと。そういう成功例ではないかな、ということを思っています。
最後にもう一つ、人の資源ということに触れておきたいと思います。ご承知のとおり、高知県は明治維新の坂本竜馬をはじめとする志士もたくさん出ました。
また、ジョン万次郎のように、あの当時、よくアメリカへ渡って英語の勉強をして、そして、通訳の仕事をしようというふうなことができたなあと、こういうふうに思うような日本最初の国際人を出しています。
さらに、板垣退助のような自由民権運動のそういう運動家、さらには戦後の復興を支えた吉田茂さんという総理大臣などなど、時代時代の大きな変換期、それを担うような人を次々と出していきました。
で、今申し上げたような政治の分野だけではなく、植物学者の牧野富太郎さんだとか、また「天災は忘れたころにやってくる」という有名な話の元になった寺田寅彦さんという物理学者の方、さらには漫画家のやなせたかしさん、アンパンマンの作者だとか、本当にいろんな道で、いろんな才能のある人が出ています。
さっき僕は、多くの署名を頂いて高知に来ることを決意した、ということを言いましたけれども、どこの県でも署名活動をしてもらったら来たかなというと、決してそうではないような気がします。
やっぱり、高知県にはそういう人を引きつける、または人を育てていくような、そういう独自の力というか磁場、引力みたいなものが、僕はあるんじゃないかということを思っています。
で、それを持ちながら、やはり、これからの時代の役に立つ独特の力を持った人が育っているんではないか、という思いで、僕が知事になってから立ち上げた大学に、高知工科大学という大学があります。
平成4年にスタートをして、今年で13年ですが、この間も東京でこの高知工科大学について、企業の方々への説明会というものを開きましたら、ホテルの宴会場の部屋がいっぱいになるぐらい、各企業の方々が来ていただきました。そうやってこの大学の人材ということに高い評価を、僕はいただいているようになってきているんじゃないか、ということを思います。
またその日の午後、この高知工科大学の先生が中心になって始めている、ある非常に優れた技術開発のフォーラムが行われましたが、この会場も、ホテルの部屋ですけれどもいっぱいでした。
この技術は何かといいますと、今皆が使っている携帯だとかパソコンだとか、テレビだとか、そういうものに欠かせない半導体というものは、シリコンという物質で作られています。
また、そういう携帯などの画面の液晶のディスプレイ、ここに薄い膜があるんですが、これはイリジウムという難しいものですが、そういう物質が使われています。
こういうイリジウムだとかシリコンだとかいう物質と違って、酸化亜鉛というごく簡単に手に入る、そしてもちろん安全で安くて、もっと加工もしやすい、そういうものを使って、同じシリコンやイリジウムに代わるものを作っていこうという、画期的な技術です。が、これもまさに高知工科大学の一人の先生、人材から出てきたものです。
このように、これからも人材というのは非常に大切な資源だという意味で、なんか皆さん方も資源にたとえるのは悪いですけれども、皆さん方もぜひこれから、それぞれの地域を引っ張っていけるような自分が人材になろうというような思いだけは、ぜひ持っていて欲しいな、ということを思います。
今日は皆さん方に伝えておきたい、皆さん方に知ってもらいたいということで、景観のこと見た目の美しさとか、調和・バランス、そういう自然や都市の景観のこと、地球環境のこと、そして、自然と技術と人の資源のことをお話をしました。
これから皆さん方は、地域に残っていく、それともどこか出ていく、また出てから戻って来る。いろんな人生が待っているだろうと思います。また、高知での将来ということを考えたときに、財政、お金のやり取りもこれからますます厳しくなってくるでしょう。また、少子高齢化ということもさらに進んで来るでしょう。
そういう中で、働ける場所をどうやって確保するか。いろいろ厳しいことはいっぱいあります。しかし皆さん方、これからの地域を支えてくれる皆さん方が、この生まれた地域、高知という県、ふるさとというものに誇りを持って、そしてそのために何かしよう、という思いを持ってくれれば、必ずや、他の県にない力を持った県ですから、まだまだわれわれ、いろいろやっていける、新しい分野が期待できるんではないかな、ということを思っています。
今後そのために、知事として精一杯できることをがんばっていきたいと思いますので、ぜひ皆さん方も、この生まれ育ったふるさとというものに誇りを持って、そしてこのふるさとのために何ができるんだろうかということを考えて、これからも仕事に進むにしろ、また勉学の道に進むにしろ、頑張っていっていただきたいと思います。
そういうことで、私からのお話は終わらせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。
<終了>