「二十歳のころ」  高知県知事 橋本大二郎氏へのインタビュー

公開日 2007年12月08日

更新日 2014年03月16日

「二十歳のころ」  高知県知事 橋本大二郎氏へのインタビュー

取材・執筆者:田村綾子
 編著者:川島恵美
 発行:関西学院大学出版会出版サービス
 取材日:平成14年9月10日
 場所:高知県庁知事室


 ◆橋本知事は全共闘世代ですが、その当時だから学べたことはあると思いますか?
 ◆「世の中を変えよう」と思われたのは、お父さん(注)の影響もありますか?
 ◆大学時代に、学科を変わられたそうですが。
 ◆就職、不安ですよね。
 ◆お父さんについて。
 ◆普通に生活されている中で、足に障害があったことで何かお困りの事はありましたか?
 ◆平成十三年一月の高知市の成人式で、知事は新成人にお怒りになられて、全国のトップニュースになっていましたが、知事の成人式のときはそういった問題はありましたか?
 ◆今年の成人式は、東京ディズニーランドなどで行われたものもあり、私自身、成人式というものを考えさせられました。
 ◆今後、何かこういう成人式を、と思うものはありますか?
 ◆高齢社会の中で、二十歳というのは人生の四分の一に過ぎませんが、今振り返ってみて、人生の中で二十歳の頃の位置づけはどのようなものですか?
 ◆お母さんはユニセフで働かれていたそうですが、女性の社会進出について、当時の考えと今の考えをお聞かせください。
 ◆二十歳の私たちに何かメッセージがあればお願いします。
 ◆インタビューを終えて

 
――橋本知事は全共闘世代ですが、その当時だから学べたことはあると思いますか?

 当時は、いろんな運動をしている人がいましたし、大学のストライキも日常茶飯事でありました。僕らの時代に、中核派や、今は過激派と呼ばれる活動をしていた人は大体、純粋な人たちだったんです。高校時代の友達を考えても、とっても純粋で人の意見を受け入れやすいというか、信じやすいというか、思い込みやすいというか・・・。そういうタイプの人がその運動にはまっていきました。

 自分自身が本当に納得をして突き進んで、そういうところに行き着いたのならいいんだけれども。みんないろんな意味で挫折と破局を迎え、やはりまだ二十歳という若い時代に人の意見に振り回されて、夢を思い描いたり思い込んだりしてその運動に入って、抜け切れなくなってという友達を多く持っています。

 自分自身は人の話を疑うタイプで、ほんとかなとか、もしかしてそうじゃないんじゃないかとか、自分はこう思っても別の人の意見も聞いて考えてみようとかいうことが、これは優柔不断にも繋がるかもしれないけれど、自分としては、バランス感覚ということでやってきています。

 当時、その友達の状況を見ていて、自分も世の中を変えなきゃいけないとか、今のままの仕組みは若い世代から見て面白くないなということは感じていました。けれども自分は、ああいうやり方で、つまり人に踊らされるというか扇動されてやっていくのではない道をとろうと、当時感じたのは、純粋な人たちが次々と運動の中で挫折していったのをみて、学んだことではないかと思います。当時意識したわけではないです。だけど今振り返ってみれば、そういう事がいえるのではないかと思います。
 

――「世の中を変えよう」と思われたのは、お父さん(注)の影響もありますか?

 父の影響は、世の中を変える云々ということにはあまり関係なかったように思います。父は父でそういう反骨精神を持った人でした。

 例えば、戦後間もなく代議士になって厚生大臣になったんですけど、戦争で亡くなった方の遺族だとかに、戦争が終わってしまえば、なるべく財政的な支出を切り詰めて、遺族補償は少ない額で済まそうという冷たい国の対応に対して、父は、戦争で犠牲になった人たちの遺族にきちんと応えて、初めて国というものの責任を果たせるし、また国民に対しても信頼される国になるのではないかということを言って、厚生大臣を辞めたんです。

 それを当時、選挙向けのパフォーマンスだと言った人もいるだろうし、格好のいいことばかり言ってという人もいただろうけれども、そういう反骨精神を血として受け継いだというのはあるかもしれません。

 だけど、親父は高校一年の時に亡くなったし、子供時代に接している父親というのは、政治家としての父親というよりも親としての父親なので、父親が障害者としていろいろ頑張ってきた姿を見たりそこでの話を聞いたりしたことの影響は受けましたけれども、世の中を変えるとか、世の中これが駄目だといった類の思い、社会性というか政治性の面というのは、直接父からというものではないと思います。
 

――大学時代に、学科を変わられたそうですが。

 今、「青い鳥症候群」や「モラトリアム症候群」という言葉がのこっているかどうか分かりませんけれども、「青い鳥症候群」はどこかに青い鳥がいるのではないかという夢を追いかけるという意味だし、「モラトリアム症候群」は少しでも時間稼ぎをしようという意味ですが、やはり、大学に四年間いて、いきなり春休みや夏休みがなくなって毎日毎日会社に行って仕事をするというのが自分にできるかなということを不安に思ったんです。

 それと同時に、かといって大学院に行って何か研究をしたいという目標があったわけでもなかったんです。正直なところ、自分は東大に落ちて慶応にいったという意識が、入った頃はやはり非常に強くて、特段慶応の経済学部というものに意味を持って入ったわけではなかったんです。

 今は法律のほうが偏差値が高くなってますが、当時は慶応では経済学部が一番高かったので、という意味で何となく受けたので、経済が特に好きだったとか勉強したかったということでもありませんでした。それで、学士入学という手があるという話を聞いて、法律にいったんです。

 もう一つ言えるのは、今言ったように、学生生活でのんびりしてたのが、就職をしていきなりできるかなという不安とともに、当時は就職するのに学校推薦という制度がありました。慶応の成績はABCDEでつきますけれども、当時一番いい就職先だった大手メーカーと銀行にはAの数が二~三十個以上の人を推薦してくださいというのがありました。

 各企業の人事課から学校に来て、大学の就職課のほうでそういう人を学内推薦するというシステムでした。三年生が終わった時点で数えてみると、Aは十個余りしかなくてとてもまともな企業は受けられそうにないというようなことも、学士入学をする一つの理由ではありました。
 

――就職、不安ですよね。

 不安でしょ?たまたま、最近僕が接する学生は割りと問題意識を持っていたり、将来こういう仕事がしたいと、うまくいけるかどうかは別として、そういう思いを持ってる人が多いんだけれども、普通の学生は自分が何に向くかなんてわからないし、なんかあそこの会社は楽しそうとかかっこいいとかいう雰囲気でしか選べませんよね。

 そうすると本当に、入社して満足できるかなと。そして、今はみんな、みんなかどうかは分からないけれども、入って面白くなかったら辞めればいいというのが通用するという考え方もあります。

 しかし僕らの頃には、やや古臭い道徳観というか社会的な縛り、親の立場とかいうこともあって、やっぱり会社に入るに当たっては親の面子もあって、そこをいきなり六ヶ月経って面白くないから辞めるとか、二年経って辞めるとかいうのは、なかなか出来かねるという思いが自分でもありました。とすると、なかなか選ぶのは大変だなあと正直思いました。
 

――お父さんについて。

 父は見た目はとっても固い感じだし、とても仕事の面ではまじめな人だし、さっき言ったように反骨精神もあって、ある意味では政治家としてはきついというか、そういうところもあったと思います。弁も立ちましたので、そういう風に受け止められていたし、固い人間、生真面目な人間と思われていたと思いますが、家ではとてもユーモアのある、普通の楽しいお父さんでした。
 

――普通に生活されている中で、足に障害があったことで何かお困りの事はありましたか?

 それを、困っている風に見せなかったところが、僕は後になってやはり大したものだと思います。今でこそ、父は障害者でしたといってホームページや何かに書いてますけれども、僕が子供の頃に、父が足が悪いとか障害者だとかいうことをあまり意識していませんでした。

 というのは、歩いて一緒に山に登ったり、水泳をしたりとかなんでもどんどん挑戦をして、生活の中でも普通にしてましたので、それが不思議なこととも何か不便そうだなとも思ったことがありませんでした。

 ただ、子供だから全然知らなかったし気付かなかったけれども、家の段々だとかその他のところで、父と母が父の体に合わせるために色々苦労したり工夫したりしたところはあったのかもしれないけれど、それは全然分らないので日ごろの生活を見た限りではそういうことは感じませんでした。

 たぶんいろんな障害、足の障害もあれば、腕の障害、目が見えないとかお話ができないとか、いろんな形の方がいらっしゃいますが、それぞれにそこの家に生まれた子供はそんなに親の障害というのをたぶん感じないんじゃないかなと思います。

 大人になっていって、父親は障害者なんだと意識をし、それからそういう目で見て、父は父なりに大変だったなと振り返るくらいで、実生活の中で、例えば他のいろいろな障害を持っている方で、家庭を持たれて、お子さんを持たれた方の、そこの家の子として生まれた子は、そう親の障害というのをあまり不自由なものとして受け止めないのではないかという風に、自分の経験からは思います。

 ま、父は足がちょっとびっこを引く程度の障害ですから、一級の手帳ですけれども、目が全く不自由だとか耳が全く不自由だという方とはまた違うかもしれません。けれども僕は、障害者の家というのは概してそういうものではないかという気がします。

 きれいごとの話かもしれないけれども、家族という経験からすればそうですから、小さいうちからいろいろ障害を持っている同年代の子と一緒にいれば、全然そういうことに違和感を感じないと思います。それは外国の人も同じだと思います。

 外国の人がいて違う言葉を喋っている人を突然二十歳過ぎてから会ったとすれば、それは強い違和感を感じるだろうし、肌の色が違ったりすればそれも。知識としてそういうことを顔に出しちゃいけないとは思っても、やっぱり感じるものはなにかあるだろうし。子供の頃から一緒にいれば、そういう事は感じないんじゃないかということは思いますけど。
 

――平成十三年一月の高知市の成人式で、知事は新成人にお怒りになられて、全国のトップニュースになっていましたが、知事の成人式のときはそういった問題はありましたか?

 僕はそれこそ、さっき言った全共闘世代なので、自分自身結果から言えば、成人式に行ってないんです。東京の港区にいた時ですので、港区役所から通知が来たんです。港区役所というのは芝のほうにあるんです。

 それが海側にあるので、やや実家から遠かったというのもあるんですけど、当時は全共闘世代で、お上や行政が構えてくれる式典に出ていって、もっともらしい方のご挨拶を聞いて講演をきいて、なんてバカバカしくてできないという思いがあって、敢えて行きませんでした。

 親からもそんな成人式がどうのこうのということも、父は亡くなった後ですけれども、母親からも何も言われませんでした。ですから自分は行っていませんが、当然当時はみんな静かに聴いていたと思いますよ。
 

――今年の成人式は、東京ディズニーランドなどで行われたものもあり、私自身、成人式というものを考えさせられました。

 僕が知事になって初めての成人式は平成四年ですけれども、その時もざわざわするので、「うるさいから静かにしなさい」ということを言ったんです。当時僕が思ったのは、やっぱり主催者ももう少し毅然とというかきちっとした態度をすべきではないかということです。

 その頃も会場は県立の体育館で場所は同じだったんですけれども、後ろの扉も開けっ放しで、式が始まってもそのままダラダラと出入りを認めているようなやり方だったんです。それはそもそもおかしいんじゃないかと。きちっと区切って、時間を過ぎたら入れないという風にすべきではないかという話をして、その翌年からそのようにしてもらいました。

 毎年毎年出席していて、成人式というのは僕にとってはやりにくい、挨拶のしにくい式典の筆頭なんです。人数的にそれほどの数じゃないところは、群集心理が働かないというのもありますが、高知市になると、人数がある程度多くなって、群集心理がはたらくということもあります。

 そして、来ている人たちの思いが違うのです。自分自身の青春の節目に思い出にしたいという人もいるだろうし、せっかくの式典だから人の話を聞いて参考にしたいという人もいるだろうし、式には関係なく、みんな県外に散らばっているので久しぶりに待ち合わせ場所として集まる人もいるので、集まっている人たちの思いが一つではないのです。

 その意味では、とってもやりにくい式典です。しかも、そういう二十才くらいの人はいつもいつもざわざわしてるので、話に集中できないし、毎年毎年いやだなぁと、やりにくいなぁと思いながら出席していたんです、若い人たちには失礼ですが(笑)。
 

――今後、何かこういう成人式を、と思うものはありますか?

 かと言って、ディズニーランドだとか、携帯でメールをやらないように皆で携帯でクイズをやるとか、そこまでするというのは、とにかく成人式を無事済ませばいいという感覚になってしまっていて、本来の姿ではないのではないかと思います。

 行政が関わるのもいいけれども、自分たちで祝うのであれば、自分たちで仕切って自分たちで誰かを招いて話を聞いて、という風な自主性を持ったやり方でやっていくとかいうものになるといいと思います。一体感のある式典と、ない式典では、まったく違うと思います。
 

――高齢社会の中で、二十歳というのは人生の四分の一に過ぎませんが、今振り返ってみて、人生の中で二十歳の頃の位置づけはどのようなものですか?

 僕が二十歳の頃は、高齢化とか高齢社会というものを全く意識していませんでした。社会的にも、言葉がまだ普及していなかったと思います。国連で、人口の全体の七%以上が六十五歳のお年寄りになると、高齢化人口国と言われるという基準があって、日本がそれになったのが昭和四十五年(一九七十年)の大阪万博の年ですから、このとき僕はもう二十歳を超えていました。

 ただ、僕自身は割と夢見がちというか、感受性が強い方だったので、小学校高学年から中学校入学の頃は、自分が死ぬということを意識して、死ぬことがとっても怖くて、やがて自分は年をとって死ぬのかなぁということを思いました。何となくそんなことで悩み、しかしそれが何ヶ月続いたのかわからないけれど(笑)、それ以来、高齢化社会というものを考えたことはありませんでした。

 さっきの成人式の話に関係しますが、去年(二〇〇一年)の成人式がああいう形になってしまったため、今年(二〇〇二年)は高知市からのお招きがなかったので、ここ(知事室)に成人式を迎えた人に来てもらって話をしたんです。そういう中からも、自分たちが年を取ったらという話が出てきました。

 二十歳になったことを何で感じるかというと、もちろん選挙権が一つだけれども、年金の支払通知がきたので感じたというのです。それで今から年金を納めて、果たして自分たちが六十五歳なり、その時は七十歳になっているかわからないけれど、年金受給年齢になった時に、年金をもらえるのかという質問をされました。

 冗談で言っているのかそれとも本気かと聞くと、本気にそう思うと答えられました。僕らの頃には全く意識しない話ですから、それは僕らの二十歳の頃と今の二十歳の人との一つの大きな違いですね。自分が年老いた時どうなるか、今の制度はその時もつかとか、そんなことを悩まないといけないのは大変だなと思います。

 当時の僕たちには、そういう悩みや問題意識はなかったけれども、当時の政治体制がどうだとかいう事には関心があったと思います。逆に、今の二十歳の人は、ほとんど関心がないと思います。少なくとも、全共闘世代のような反発の目で政治を見るという意識はないのではと思います。

 反発というより、完全に無視してしまうか、関係のないものとして別の世界に生きるかという風ではないでしょうか。僕たちにはその反発の目があった代わりに、自分たちの将来だとかをあまり考えなかったのも、大きな違いだと思います。
 

――お母さんはユニセフで働かれていたそうですが、女性の社会進出について、当時の考えと今の考えをお聞かせください。

 僕の母は、母方の祖父が(僕が生まれる前に亡くなったので、会った事はないけれども)、政治家をしてまして、母を見て、「正(まさ)が男の子だったら政治家にしたのになぁ」といったというくらいの人でした。でも僕が子供の頃に、仕事がしたいとかいう話を聞いたことはないし、専業主婦で充分満足して暮らしていたと思います。

 当時は、海外への円の持ち出しも、自由に観光旅行するなんてこともできない時代で、何か理由がないと海外へ出られませんでした。しかしやっぱり、祖父はそういう母に、早いうちに世界を見せてやりたいと思って、それで探したのがユニセフの仕事だったんです。それ以来、母はその仕事に打ち込んいでました。

 そういう姿を見て、やっぱり僕は、女性が仕事をするというのはすばらしいことだと思います。僕もできれば、仕事を持った女性と結婚して、自分は「主夫」をして、女房に働いてもらうのがいいなぁと(笑)思っていましたけれども。僕はたまたま家庭の主婦願望の女性と結婚しましたので、私が働いて女房が専業主婦になっています。

 僕自身はやっぱりどんどん女性が社会進出をしていくべきだと思っています。というのは、さっきの高齢化の話とも関わるけれども、高齢化率が日本全体で二十%という様なとこまできて、しかも少子化が進んでいるので、ということは、生産人口というか労働力にあたる人口の部分が、十八歳から六十歳位の働く世代がどんどん少なくなるわけです。

 そういう時に、お年寄りや女性が地域社会をまわしていく。これは、サラリーウーマンであれ、パートであれ、ボランティアであれ、いろいろな形があると思いますけれども、そうでない限り、地域を保っていけないということで、その必然性もあって女性にはもっと社会進出をしてほしいと思います。

 ただ僕は、昔「良妻賢母」というのが一つの理想像として挙げられて、それ以外が認められなかったという様な時代がおかしかったのと同じように、社会進出をしないと、仕事をしないとおかしいというのも変だと思います。仕事をしながら子供を育てるのか、専業主婦でいくのか、その中間といろいろあると思います。

 そういういろんな選択肢がある時代になったし、その選択肢を保障するような社会的な仕組みを作っていくのが、行政や社会の責任です。ですから、社会進出できるようになったのだから家にいるのは古臭い、とかいうことでもないと思います。

 やっぱりそれぞれの女性の生き方で、自分は子供と一緒にいて育てていきたいとか、少なくとも子供が学校に上がるまでは一緒にいたいとか、いろいろな考えや生き方があると思うので、それが実現できるような支えを作っていくことが必要なのではないでしょうか。

 逆に言えば、男もそういう社会になってほしいものだけれども、なかなかそこまでいくのは社会がもう一回転してからでしょうね。女性の社会進出と、今言ったような仕組みが出来上がってから、男の順番だと思うので、今は男が働かざるを得ないと思います。

 僕が二十歳の頃はそこまで考えていたかというのはありますが、父が亡くなってすぐに母は日本ユニセフ協会の理事になり、僕が二十歳のころには専務理事になっていたと思いますが、ほとんど毎日のように仕事に行っていました。母は、毎日毎日僕に朝飯を作って、それから仕事に行っていましたので、そういうものをごくごく普通に感じていました。

 だからそれも、さっきの障害者の話じゃないけれども、自分の母が働いていたら、それは違和感なく受け止められるだろうし、また家にいたら家にいたで違和感なくということで、家庭環境によって受け止め方が違うので、なんとも一概には言えないだろうと思います。
 

――二十歳の私たちに何かメッセージがあればお願いします。

 高知県知事としてのメッセージになりますが、これからの地方・地域づくりというのは、僕は面白い仕事だと思うんです。もちろん、世界を舞台にして仕事をするとか、東京なんかで大きなビジネスに参加することなんかも楽しいと思います。

 地方や地域というのは、いろいろな難しい問題を抱えているし、特に若い人にとっては雇用の場が非常に少ないという風な制約条件もあって、なかなか飛び込みにくいという現実はあります。

 けれど僕自身、NHKの記者を辞めて、知事になって仕事をしてみて、とても大変で辛い事もいっぱいあるけれども、やりがいのある仕事だと思うし、これからの日本ということを考えたときに、高速道路の問題でも交付税の問題でもそうですが、国も財政的に厳しくなってなかなか地方の面倒まで見切れないという時代です。

 そういう時代に、従来からの、国に追随して顔色を窺ってという地方ではなくて、本当に少々貧しくても、というかこれまでの財政規模ではなくてもやっていけるような自立した地域を作っていくのはとってもやりがいのある事です。こういう地域づくりに、全員にというのは無理ですが、百人のうち四,五人でも関心を持ってもらう。地方や地域に目を向けて何かやろうという意識を持ってもらうと、日本という国全体が、もっとバラエティに富んだ国になると思います。

 今のような状態が続くと、ますます東京一局集中のまま、しかも交付税などの仕組みが変われば、東京しか財政的にやっていけないという状況になりかねないですね。それではやはり日本という国は駄目になりますよね。とは言っても、なかなか慎ましく貧しくというのは簡単にはいきません。

 生活水準は生活水準で保っていくとして、お金だとかレジャーだとかの楽しみ以外のところに、どれだけ楽しみというか生きがいを見出せるかどうかで、人生というのは広がりが出るのではないかと思います。
 

――インタビューを終えて

 今回、橋本知事にインタビューしようと思ったきっかけは、橋本大二郎氏は高知県出身ではないのに、なぜ高知県知事を選んだのだろうという、高校生の頃の小さな疑問からでした。どのような青春時代を過ごし、いつごろから高知県に興味を持ったのか、どのような考えの下で高知県の政治をしてこられたのかを、いくつかの質問を通してお聞きしたいと思っていました。

 実際にお会いして、決断力、実行力、そして柔軟性に富んでいる方だな、という印象を持ちました。私は今まで政治には関心を持っていませんでしたが、橋本知事の話をお聞きしてみて、もっといろいろなことに興味を持ち、行動まではいかなくとももっと考えていくことが必要だと思いました。

 今年は、高知県で国体が開催されたのですが、従来と違い、節約を徹底し、公正なジャッジの下、大成功を収めました。橋本知事の望むものが、高知県で広がっていっている結果だと思いました。
 今の状況に甘んじることなく、多少のリスクを負ってでも、変化し続ける姿勢を見習っていきたいと思いました。
 

 橋本龍伍(りょうご)
 小学校五年生の頃にかかった病気が原因で、足に障害が残る。しかし、持ち前の負けず嫌いな性格で、二十歳近い年齢で中学に編入し、その後、第一高等学校(現在の東京大学教養学部の前身)に合格、入学、大蔵省を経て、代議士になる。没年 昭和三十七年(享年五十七才)
 


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